無意識日記々

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死んでもこの世でノリツッコミ

『大切にしたい人と信頼関係を少しずつ築いていくプロセス』

ふーむ、これもまた自分の言葉で書いてるな。WILD LIFEでの『自分自身を大切に』というメッセージが思い出される。胸が痛い。「自分自身と信頼関係を築く」だなんて面白いフレーズだと思うが、今回は関係ないだろう。ここは素直に読み解くべきだが、後述の通りこれが息子との事だとすればわかりやすいかもしれない。母と子以上にあつい信頼関係などあるのだろうか。いやあるだろうけど、一般論だとやはり最強だろう。安らかな眠りに就けるのは母親に対して絶大な信頼があるからだ。子育てを通してそれを学んだのなら、いよいよそれが歌詞に反映されているという事で、シンプルに、めでたい。…愛でたい。

『「悟り」とは真逆のことだけれど、死んでも手放せないほどこの世のなにかに執着することの人間らしさに共感』

おぬし今『共感』と言ったな。それは嘘だ。いや、どうだろうな、よくわからないが、普段は強調の形容として「死んでも」はよく使うが、流石に今回はまずいんじゃないの。「この世の何かに執着すること」に対しては。死んでも、ってたとえあの世に行く事になっても、でしょ。「あの世に行くハメになってもこの世の何かに執着する」って矛盾してると思いませんか。いやその矛盾こそが人間だ、と言われればそれまでですが。

『人間らしさに共感して、自分の死後を想像して「あなた」を制作しました。」

と。思ったら。あの世行ってしもてるやんけ。あの世に行ってなおこの世の何かに執着する、ってそれ「化けて出る」いうことか。そいやそういう映画やったな。てことは何か、さっきの『死んでも』は強調の形容やなくてドラマのストーリー上の単なるエピソードやったんかい! 作詞家の職業病的ナチュラル・レトリックに騙されてしまったぞ。楽しい。

そして、

『一つの普遍的な愛の形として、母親目線から音楽的表現をしたのはこの歌が初めてになります。』

来ましたよ。遂に来ましたよ母親目線。これ、どういう事かというと、まず『あなた』の話をする前に「今までの歌に『母親目線から音楽的表現をした』歌は、ひとつもありません」と宣言したに等しいのだ。今までの歌に「ひょっとしてこれ息子の事では?」と疑いをかけていた人、残念でした。ただ、ヒカルが「そのつもりはなかった」だけであって、無意識を抉り起こす真似はいつでもできる。そこからまた新しい歌が産まれかもしれないし、こと歌に関しては「自分のやり方を貫く」頑固さもまた一興なのだ。気の済むまでどうか、どうぞ。

さて、この「母親目線」の話を始めると長くなってしまうだろう、というのは書く方も読む方も当たり前のように予想のつく話なので、今回もまたこの続きは稿を改めましてという事で。