無意識日記々

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このかなしみをどうすりゃいいの

ほんとにねーもー、こうなるとしつこいんだ私は。『30代はほどほど。』ん時を思い出すぜ…3DVRな…。

あん時は「こんな企画は即刻却下。なぜなら」みたいな話を延々1ヶ月続けた。粘着質としても相当酷かった…筈なんだが真に酷かったのはストリーミング当日だったのだから凄い。2003年ならまだしも2016年のインターネットで「繋がらなくて歌が聴けませんでした」て。こちらの事前の酷評を更に下回ってきた。恐るべきスタッフ。どこの誰かは未だに知らないけれど。

そん時も思ってたのだ事前に。「もしかしたら事前のどうしようもなさは目眩ましで、本番当日に何かサプライズでも仕込んでるんじゃないの?」と。いやぁ、見事に裏切られた。

今回の座談会企画も「この酷さを乗り越えたら何かあるんじゃね?」という一抹の期待がまだある。いや、あって欲しいという願いがあるだけかな。もう祈るような気持ちで。

座談会を読めば読むほど「じゃあなりくんメジャーデビューなんてしなきゃよかったじゃん」と読者に言わせたがってるとしか思えない発言が続く。

色々すっとばしてこれだけは進言しておこう。絶対ライブになりくんを呼ばない事。ステージに立ってもいいしバックコーラスを当ててもいいけど、名前を紹介してはいけない。

本来なら、せっかくできたレーベルメイトなんだし、オープニングアクトを任せてもいいんじゃないかとか考えてたんだけど、もう駄目だ。勿論ヒカルファンは暖かく優しいのでその場では拍手喝采で迎えてくれるだろうが、人の本音ってどれだけ取り繕ってても人数が揃っちゃうとバレバレになるからね、いたたまれない空気になると思うよ。

本当は『ともだち』で呼べればよかったんだけどな。

万が一ブーイングが起こったら、客層を考えたら最悪である。ほぼ有り得ないとは思うが。勿論私は「本人がどんな人間だろうと音楽で判断する」態度を崩す気はないが、「なりくん、歌は素晴らしい。だが早く帰った方がいい」という言い方は出来てしまう。音楽的魅力を肯定している人間にここまで言わせているのだから、そもそもなりくんの歌が嫌いな人は容赦ないだろう。

ヒカルもヒカルで、もうこれは昔からだが、対談相手に見事に合わせてしまう。なので、キィスとか桜井和寿とか浦澤直樹とか際立ったクリエイターの皆さんたちとは歴史に残る名対談を残してきた。しかし、こうやってなりくんに寄せてくると、ファンが読むのも辛い代物が出来上がる。わかりやすいといえばわかりやすい。

だから本来ならヒカルの最高の相手は自分自身なのだ。“2人”が対談すれば最高のものが出来上がる。それは合わせ鏡のようにどこまでも無限に連なっていき、夜12時になれば悪魔がやってくるのだ(このネタ有名なのだろうか…)。その比喩は兎も角、「宇多田ヒカルの自問自答」の成果は結局の所歌詞に結実して我々に提供されている。その意味では文句を言う筋合いはない。

それと、これもしつこいようだが、如何になりくんが気に入らなくても彼の『初恋』に対する貢献自体は否定してはならない。それはそれ、これはこれである。『パクチーの唄』の共作者として彼の名は永遠に残る。その事実は気に入らないかもしれないが、唄の魅力を自ら減らしにいかないで欲しい。ほんと、リスナーにこういう負担をかけているという意味でも今回の座談会企画は大失敗、大迷惑なんだよねぇ。