皆がライブや新曲の事を話していてここに来る人もそういった話題を期待してやってきているというのに私は全然違う話をしてしまうので始末が悪いわね。
『初恋』という言葉すらそこに当て嵌めてしまう程ヒカルは「親との関係」、とりわけ「母親との関係」について感情が深い。「恋をしたことがない」というのも、母を恋い焦がれる感情に勝る体験をしたことがない、という意味にとれる。ヒカルにとって母は大きい。
「親との関係」を背景にして綴られる歌詞、しかもラブソングとしての体裁を持った歌詞が人々の共感を得るのは然もありなんとは思えるものの、ヒカルの歌詞の響き方は余りにも甚だし過ぎるように思う。控えめな性格の女子が内に秘めて熱狂し続けるような圧倒的な特別さはどこから来るのか。
それは「親との関係」に生まれた感情のスペクトルが誰よりも大きく広い事から来ているのではないだろうか。遠慮なく書いてしまうが、ヒカルの母親はヒカルの事を天使のようにも悪魔のようにも扱う人だった。つまり、ヒカルは親からの愛も知っていれば親からの憎しみや怒りも知っているという希有な立場に追い込まれていた。
普通、親との関係性というのは大枠では変化がない。思春期に気まずくなったり反抗したりという事はあっても、親側からの子に対するスタンスというのは基本的には変わらないのだ。愛する人は愛するし、無関心な人は無関心だろう。
ヒカルには、そういう「固定化された親との関係」がなかったのかもしれない。毎日コロコロ変わっていた。従ってそのスペクトルは、より多くの人の感情の形成をシミュレートできるに足る広大さを持つことになる。いうまでもなく人の感情の形成は親との関係性からまず構築されていくのだから。
これによりヒカルは誰よりも人の感情の機微に聡くなった。新しく人とあたった時、その人の感情の履歴と軌跡が手に取るようにわかる。それが極まって「写真を見るだけで性格がわかる」とかいう稀有な特技を持つに至るのだがそれはまぁ余興としても、より多くの人の共感を得れる歌詞が多様な感情生成過程各々に共通なポイントをみいだす事で生まれるのだとすれば、お母さんのヒカルに対する態度の数々は作詞家としての英才教育だったといえる。究極の結果論に過ぎないが。
それらがまた極まると、クリスマス嫌いとクリスマス好きの両方から共感を得られる歌詞や「昔はよかった」と郷愁に浸りたい人と今こそ我が世と圧倒的な現状肯定を支持する人の両方から喝采を得られるポップソングを書けるようになるのだが今のヒカルは更にそこから『真夏の通り雨』を生み出して更に更に次のステップへと移ろうとしている。新情報を追い掛けるよりも、まずはその作詞家としての段階を把握するのに追いつく方が先に必要かもしれない。そんな事を考えつつそろそろ裸婦抱くの続きを書きたいなと思い始めている私はやっぱり天邪鬼。いや、単なる正直者のつもりなんですけどね、、、自分の気持ちに対して、ですけれど。