無意識日記々

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悪口は無視よりずっと嬉しい

ヒカルが今後もマスメディアと付き合っていく中で忘れていたいけれどもどうしても忘れていられないキーワードが『マスコミ恐怖症』だ。2013年9月18日のtweetsは今読んでも相当キツい。もう6年も前の話なのにとても正視できない。当事者でない者が読むだけでそんな感情に苛まれるのだから書いた当事者の感情はどれだけのものだったのか。最早想像が及ばない。何か声をかけることすら憚られる。

『マスコミ恐怖症になってしまった』と言い切った人がこうやって復帰して大衆を相手に歌っているのは奇跡である。本人の希望だからとか意志だからとかで責任逃れしてよいことではない。マスメディアの目は大衆の目だ。奇跡にはただただ感謝と猛省をするのみである。

本来なら、たとえミュージシャンという職種に復帰するとしてもマスメディアを使わない方法論を選択する事も出来た筈なのだが、恐らくEMIとの契約というのもあったのだろう─そう考えそうになるところだが、ならばSONYに移籍してもこうである必要は無かった筈。感謝と猛省と言ったが、やはり「ファンが待っているから」に尽きるとしか言えない。我々がそれから目を背ける事はできない。

恐怖症が6年で克服できるとは思えない。年月としても短いものだし、何よりマスメディアが変わった様子が無いからだ。今同じ事があればまた同じ事をするだろう、と希望的観測を差し挟んですらそう思う。何かが変わった気がしない。

いつも言っているように、対処法はマスメディアをまるごと無視する事なのだが、そこで前回の論点が立ちはだかる。宇多田ヒカルの商業音楽活動はマスメディア無しでは有り得ない。そういう構造になっているのだ。ヒカルは百も承知だろうから、シンプルに我慢しているのだろう。マスメディアに追い掛けられる事を。もしいつか「もう平気」とヒカルが言ったのなら、それはそう口にした気概を尊重しはするが、当たり前だが実際に平気な訳が無い。平気になるのは、今のマスメディアが全く変質して有名税とやらがゼロになることだろうが、それは彼らがゼロまで滅びる事と同義かもしれない。そして、ゼロまで滅びたとしてもトラウマは残る。心の傷は時に何十年も人の心を潰えさせる。侮れぬ。

そうやって毒を喰らってまで人前に立つヒカルの気持ちを汲むのなら、ある程度は大人に振る舞おう。ただ、ヒカルファンは人がいいからなかなかわかって貰えないのだが、非難や糾弾は無視より遙かに好意的だ。我々が言及するのであれば、どれだけ悪し様に罵ってもそれはメディアにとってほくそ笑むべき利得でしかない。クリックひとつ、タップひとつが彼らに力を与える。それは覚えておいて欲しい。悪口は無視よりずっと嬉しい。

よくわからないチキンレースになるのかな。人の口に戸は立てられず、民の醜聞好きは何万年の歴史がある。人前で歌うことにも何万年の歴史があるだろう。どちらかが音を上げるまでこの毒の喰らい合いは続いていく。距離感は、その中で語り合うべき観点だ。前回の続きは次回だな。