無意識日記々

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『なんと言われようと』

もう一度『あなた』の歌詞のお浚い。

『戦争の始まりを知らせる放送も

 アクティヴィストの足音も届かない

 この部屋にいたい もう少し』

ここで『部屋』は『放送も』『足音も』届かない場所として描写されている。音を遮断する機能。

同じく『あなた』から別の場所を引用してみよう。

『何度聞かれようと変わらない答えを聞かせてあげたい

 なんと言われようとあなたの行く末を案じてやまない』

「聞かれる」「言われる」という表現。特に二文目の「なんと言われようと」という言い方には“外からの雑音”という意味合いを強く感じさせる。やはり“音”、聴覚が鍵になっている。

『戦争の~放送』も『アクティヴィストの足音』も、『部屋』の中にいる『私』と『あなた』にとっては直接は無関係だ。今世の中ではこんなことが起こっているけど今の我々はそれらに直接影響されることなく過ごしている、と。勿論、そこには“不穏な予兆”があり将来の長きにわたってこの平穏が続くことはありそうにない、と強く感じさせてもいるのだが。

一方で「なんと言われようと」という“周囲の雑音”はどちらかといえば直接降り懸かってきた感じがする。「聞く」と「言う」に音のやりとりがある。

今取り上げた二段落を対比として捉えると、より『部屋』という歌詞の機能が際立つ。今、部屋に居て周囲の雑音を遮断しているけれども将来的には外に出てなんとかかんとか言われる事に立ち向かう所存がそこにある。最終的には遠くに聞こえているアクティヴィストや戦争とも対峙しなければならないだろう。しかし今は『もう少し』部屋で過ごしている。期間限定かもしれない幸せを噛み締める為の一時的な避難所、それが『あなた』での『部屋』なのだ。

それを踏まえた上で…という話からまた次回。