無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

出過ぎた杭は打たれない、ってだけ。

こんなにも「表現の自由」という概念が浸透していないのかとTwitter検索しながら溜息を吐く毎日なんだけど、そもそもこの日本語圏て「表現活動自体が悪」なんだっけな。「出る杭は打たれる」とはよく言ったもので、前に出て行って何か言う人間は基本的に陰湿ないじめに遭う土壌なのだった。

勿論そんな中でも表現活動に従事する人は山ほど居るのだが、いやまぁ叩かれること叩かれること。Twitterだけ見ていて一般論を語るのもどうかと思うが、何を言ってもやる気が削がれるのでは発信する側が少ないのもむべなるかな。特に日本はインターネット上でインプットの多さに対してアウトプットの少なさを指摘される事が多いしな。

こんな事を書いてるのも、ヒカルももっと環境が整ってれば自由に発言してるのだろうなぁと思うからで。若干政治的とも取られかねない発言は概ね英語だったりな。まぁLGBTについて触れる程度で政治的って程でもないのだが。

昔みたいにメッセに長文を投稿して欲しい、みたいな願望はオールドファンにはお馴染みだが、だったら我々の方がそういうのを書いても大丈夫な環境を用意しないといけない、ってのが筋だ。が、その環境ってのは地上波テレビだったり新聞社だったり出版社だったりとまぁ産業としての規模が大きくて庶民にどうこう出来る存在ではない。見ない買わない読まないを徹底したいところだが見出しに「宇多田ヒカル」ってありゃそりゃ見ちゃう買っちゃう読んじゃうよね。相変わらず首根っこ掴まれてる感。

なので、せめて自分のアウトプットくらいはヒカルに「いろいろ書いて発信したい」と思わせれるものであって欲しいのだけどそれもなかなか難しい。それも言ってても始まらないので、うだうだ考えるのは後にしてまずはアウトプットをしよう、と。内容を精査するのはそれからでいい、と開き直って…

…というのができないのが、「表現の自由が浸透していない圏」での宿命で。まず何か言う。それのリアクションを貰う。拙いところを直す。またなんか言う…というプロセスを経て表現はよくなっていくんだけど、このプロセスを担保するのが「互いの表現の自由を考えられ得る限り尊重する」という思想なんだが、少し拙いことを言っただけで叩かれて表現意欲が削がれるのが現実なのですよ。めげずに発信し続けれてる人ほんと凄いよ。私ゃ叩かれたことがないのでのんびりのほほんなんですけどね。平和だとこれだけ(6000回以上)のアウトプットが可能なのですよ。つくづく、平和って大事だなと思うわけであります。