無意識日記々

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「なる」と「する」②

急に宇多田ヒカル最新情報メールが来たから(いやいつも急だけどw)何事かと思ったら映像商品のキャンセル分再販のお報せだと。ちょっとほっとした。千葉の停電で気が気でない時に嬉しい情報が来ても素直に喜べなかったろうから。やっぱりいつも通りに喜び合う相手と喜び合いたいもんですので。

まぁそれはいいとして前回からの続き。

人工的に音楽を作る人もいる、という話だったな。世の大半はそうだろう。楽しげな曲調を、とかジャズ風アレンジで、とかこういうVTRの背景で流すための音楽を、とかの何らかのオファーを背負っている場合は人工的に曲を書くことになる。意図的に曲を書くための方法論は、それはもう21世紀なので色々と確立されていて、最早今はAIが作曲する時代だ。Artificial Intelligence、人工知能ですわね。

かたや勝手に生まれてくる音楽。かたや意図的に量産される音楽。どちらも得意という人はそう居ない。ヒカルは両方できるばかりかその両方を組み合わせて作曲している。その為、曲を自由に出来ずに音楽に圧倒されると述べることもあれば、一方で音楽に対して支配的に振る舞うこともある。両面をもって宇多田ヒカルの音楽が完成する。

いつもヒカルの曲について「全く新しいプチジャンルを作り上げてそのジャンルの最高傑作を最初に提示する。その為、以後“似た曲”というのを自ら作る事もしないし、また誰かに模倣されたり応用されたりといった事も少ない」と述べている。普通ならあるジャンルを作り上げた人は一生そのカテゴリーの作風で曲を作り続けてよりその方法論を極めていく、か或いは、そこを突き詰める事はせずそのジャンルの発展は他の誰かに任せたり、とかする。そうやって百花繚乱が起こるのが音楽のジャンルというものだが、ヒカルはスタートにしてゴールの楽曲をいきなり発表してしまうからそれ以上何も起こらない。「ヒカルが凄い曲を作って歌った」で歴史が完結してハイおしまい、だ。ひとりだけで最初から最後まで自己完結してしまう。面白みがないと言ったら言い過ぎだが、最早改善の為に掛ける言葉など思いつかないのがいつものことである。

このスペクトルの広さがそのまま支持層の幅広さに直結している。人工的なPopsが好きな人にも、プリミティブなエモーションの発露が

好きな人にも両方から支持されている。そういう意味でも隙がない。いうなれば、“真心で笑顔が作れる人”なのだヒカルは。

それを踏まえた上で、それでももっとこう、得体の知れないものとの遣り取りを見てみたいな、と思うことがある。となると、やはり、ここでもまた「母の死」という最大のトリガーについて言及せねばなるまいか。これもまた、一生ついてまわるのだろうな。因果というか、運命とは斯くも過酷なものなのか。(いや、それは言いたかっただけだろお前…。)