無意識日記々

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夢はつまり思い出のあと?さき?

「少年時代」という歌は、タイトルがこうでなければなかなか少年時代を連想できない雅で詩的な表現が多い。このタイトルを付けることである一定の方向性に情景を誘導しているようにもみえる。

タイトルを忘れてただ歌詞だけを吟味してみると、例えばヒカルの歌でいえば『真夏の通り雨』なんかに近い風合いがある。

─ 目が覚めて 夢のあと

─ 長い影が夜に伸びて

─ 星屑の空へ

─ 夢はつまり 思い出のあとさき

『夢の途中で目を覚まし』

『立ち尽くす 見送り人の影』

『思い出たちがふいに私を

 乱暴に掴んで離さない』

決して似ているとかましてや似せているとかではないのだけれど、こうやって並べてみた時の親和性のようなものは伝わると思う。情緒の置き所に二人近いものがあるのだ。もともと「少年時代」の歌詞は宇多田ヒカルの世界観と齟齬がない。カバーが成功するのは目に見えている。もっともそれはコロンブスの卵でしかなく、最初にそこに気づいた奴はやっぱり偉い。

なので、ヒカルが今回カバーするにあたってその親和性とどういう距離のとり方をするのかがひとつの焦点になるだろう。より近付くか敢えて距離をとってみるか。

ひとつ思い当たるのはここでも『Passion』だ。老人が少年の(或いは少女の)頃に描いていた夢や未来を見る目線と目を合わせる時それは陽水の描く「夢はつまり思い出のあとさき」や「誰のあこがれにさまよう」と呼応するだろう。また「青空に残された私の心は夏模様」や「永い冬が窓を閉じて」なども『Passion』と同種の空気を運んでくる。となると『after the battle』のようにピアノ一本の編曲を思い描いてしまうが果てさてヒカルはそこをどのように捉えたのか、捉え直したのかな。冬を迎えようとする今聴けるのは、それはそれで嬉しいことなのかもしれないな。

(……今朝の続きはどうした、って? いやぁ、わからないよ(笑))