無意識日記々

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アンファミリア・ウィズ・ファミリー

自らの仕事を家業と呼び家族と仕事をし更に周りのスタッフも基本固定の環境にあるヒカルさんだが、それは断じて「ファミリー」的な集まりではない、というのが面白いところで。

映画「ゴッドファーザー」が有名になり過ぎたせいなのかなんなのか、「ファミリー」というとイタリアンマフィアのような結束の固い手厳しい集団というイメージも付き纏う。一方で「シルバニアファミリー」を思い浮かべる人も居たりで様々なのだが、いずれのファミリー感もヒカルの周りにはない。

囲っていたり隔たっていたりする印象がないのだな。何か共通のコンセプトや教義があるわけでもない。何より、ヒカルが「アイドルやカリズマではない」ところが大きい。教団とかファンクラブが成立する為にはどこかそういう「大きな役割」みたいなものを課されるのが中心人物の宿命なのだが、ヒカルさんはコミュニティやソサエティ、ファミリーの中で何らかの役割を果たしているという感覚が希薄なのだ。

ヒカルが果たしているとすれば「宇多田ヒカルの役」くらいなもので、これを何か他の役に当て嵌めたり、当然ながら他の人がこの役を演じたりすることはできない。『歌姫ってなんなん』の一言にその違和感は集約されていたが、これ、歌姫以外の何を当て嵌めようとしてもしっくり来ない。既存の役割を演じていないからだ。

実際ヒカルはあまり「藤圭子の娘」という“社会的役割”には関心がなかったし、照實さんとはもう仕事仲間という雰囲気だ。普段の発言から察するに、彼とヒカルの距離感は梶さんや沖田さんや小森くん師匠とのそれとあまり大差ないように思える。そういえば結婚中もそんなに妻っぽい役割演じてなかったね。マトリックスの試写会でレッドカーペット一緒に歩いたくらいか?

ところが、ヒカルさん、母親役だけは譲らなかった。ここは当初からバッチリ母親である。先週の近影公開も粋だった。なのに、ヒカル自身のイメージが変わらないのは何なのだろう? これがいちばんの謎というか。子育てを初めてからも人生哲学に変化がないのよね。ある意味、母親役をちゃんとやってるのに、それでもファミリー感が生まれていないというか。確かに母と子だがそれ以上に「ヒカルとダヌパ」でしかないような、なんかそんな不思議な感覚がある。そういう意味で、昔と何も変わっていない。母親になってヒカル自身気づく事は沢山あったけど、そこまで変化が無いというか。或いは、それが現れるとしてもこれからなのか。漸く『あなた』でそれらしい歌詞が出てきてはいるが、だからといってあれが大きな変化だったかというと悩んでしまう。なかなかに感覚的な話だが、特に困っているということもないので大いにその有り様それ自体は讃えておきたいところなのです。