無意識日記々

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その歌を愛と呼ぶ

ラノベや漫画アニメに「俺TUEEEE」系というジャンル(?)がある。主人公が物凄く強くてどんな敵が現れようとたちまちのうちに勝利を収めてしまうような、そんな内容だ。バトル作品好きからすればどちらが勝つか予めわかっていてはつまらないとか、リアリズム持ち込みたい勢からすれば普段の生活での鬱屈を読み手がハイスペックな主人公に感情移入して擬似的なカタルシスを得ているだけだとか、そんな風に散々に言われがちなジャンルなのだが、あたしが思うに「俺TUEEEE」(ちゃんと変換出るのよねこれ……)のメインの面白さというの「発想の自由度の高さ」こそが魅力なのだと思うのだ。

腕力でも財力でもなんでもいいけれど、力があり過ぎると普段の想像力では考えつかないような事を考えついて実行に移せてしまう。端的に言えば「船ごと持ち上げればいい」とか「店を丸ごと買い取ればいい」みたいなことだ(詳細略)。そういう奇想天外な展開を読んだり観たりして「その発想はなかったわ」と呆れるのが俺TUEEEEの楽しみ方なんだと思う。

「貧すれば鈍する」というように、お金がないとついつい行動の発想が狭くなってしまう。もしお金がとんでもなくあったら、というifにおいて思いもよらないアイデアが考えついたら……こういうのを他愛もない空想癖とか言っていては真理を見失う。例えば、極端な例を挙げれば、そもそもアインシュタインが何故相対性理論に辿り着いたかといえば「光ってめちゃめちゃ速いんやな……せやけど、もし自分も光と同じ速さになったら光も止まって見えるんやろか? んな、アホな! そもそも光が止まってしもたらなんも見えへんようになるやないか!」という人類史上最も奇想天外且つ荒唐無稽な空想(思考実験)を始めたからだ。「自分が光と同じ速さになれたら」とか、もう究極の「俺TUEEEE」的発想である。こういうのを“面白い”って言うんだろ!

裏を返せば、まぁ別に発想が豊かになるのなら腕力や財力に恵まれている必要もないんだけどね。お話として作りやすいってことなんだろうよ。

で。前回の最初の設問に戻る。これだけ創造的で多くの独創的な楽曲を作ってきたヒカルさんがなぜその発想を担保する自由より、束縛する愛を求めるのか。恐らくだが、ヒカルは想像力/創造力が強過ぎるのではないか。もし自分の想像力に自由の翼を与え切ってしまったら、その想像力の爆発にヒカル自身が耐えられなくなるのではないだろうか。発想の発散で自壊する─常人には想像し難いが、こと音楽やら創作に関して宇多田ヒカルは常人ではない。だからこそフィクションの「俺TUEEEE」的な考え方で捉える必要がある。アインシュタインが自らを光の速さに仮想したように、宇多田ヒカルが自身の創造性が強過ぎて押し潰される様子を……うわぁ、考えたくないなぁ……(苦笑)。

……そのヒカルの、過ぎ過ぎた創造性を落ち着かせてくれるのが音楽なのだろう。音楽によって初めて、無限ともいえるヒカルの想像力を現世に縛り付けられるのだともいえる。母を喪った無限の悲しみ(『降り止まぬ真夏の通り雨』)をも囚われ得るその「歌」という世界の強さ。それに対する愛情や感謝がヒカルの創造の原動力になっているとすると、なんだかウロボロスみたいな絵が思い浮かぶな。あるいはもっとシンプルに、鶏が先か卵が先かというか。その陰陽図から生まれ出でるのが「光」なのだとすると、アルバートの思考実験同様、世界の真理がそこに見えてくるような気がする。そこに至る程にヒカルの想像力はTUEEEEんだよきっと。