無意識日記々

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我ら挙ってカメラ小僧

昨日の帰り道にハクビシンらしき動物と遭遇した。家に帰ってから本当にそうだったか身体的特徴を調べようとパソコンを開いたのだが、その時点になって漸く「あれ?俺スマホ持ってんだからその場で写真撮ってすぐに検索したらよかったんじゃね?」と気がついた。普段カメラを立ち上げる習慣がないものだから、こういう時にアタマが回らない。何しろカメラなんてガラケー時代からくっついてるもんだからねぇ、よくそれを活かさずにここまで来れたもんだなと自分に呆れました。

ヒカルさんは毎度「落し物シリーズ」で我々を楽しませてくれている。これって毎回「よく見つけるねぇ」と感想を述べるのだが、これもそもそも「スマートフォンで撮影する」行為があるから我々にも見れる訳で。果たしてスマホがなかったらヒカルがデジカメを持ち歩いて落し物を撮影したかというと、かなり怪しい。

そういう、私のような少数派を除いて、カメラで日常を切り取る行為が一般的になって今のようにInstagramが大きくなってる現実がある。皆どこかしらでカメラを構えているんだなと。ヒカルもその大きな流れの中で、気軽に写真投稿してくれている。大変、嬉しい。

逆に、コンパクトなカメラがなかった時代は、何か目を引く落し物やら景色やらと遭遇しても、その思い出を共有する方法は限られていた。それこそ、絵を描くとか一句詠むとかそういう事をしてその時の感情を残していった訳だ。今なら綺麗な景色に出会えたら撮影してInstagramに投稿すれば事足りる。

きっと歌の歌詞も、風景を詠んだ俳句や短歌や詩歌と同様に、目で見た景色から感じた事を何千年と綴ってきたのだろうけど、現代だとそれがなかなか動機づけられない状況なんだろうな。

しかし勿論、それでもそこに現れる言葉の力というのは大したもので。如何に日の出の写真を綺麗に撮影しても、『日の昇る音を肩並べて聞こうよ』という言葉を聴いた時の感情に辿り着くのは難しい。風景への詠嘆自体は、依然として人の心の中にあって、それを表現する手段として歌は相変わらず有効だ。でも、やっぱりスマホのカメラって便利だねぇ。今後もヒカルのアウトプットへのハードルを下げ続けて下さいなっと。