無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

Namo・Nowa・Kirey

前回歌詞として触れたパート、

『誰にも見せなくても

 キレイなものはキレイ

 もう知ってるから

 誰にも聞かなくても

 キレイなものはキレイ

 もう言ってるから』

……この部分を今度は音で見てみよう。

符割りに沿って書き直すとこうなる。

「ダレ・ニモ・ミセ・・・

 ナク・テモ・キレィ・・

 ナモ・ノハ・キレィ・・

 モウ・シッ・テル・カラ

 ダレ・ニモ・キカ・・・

 ナク・テモ・キレィ・・

 ナモ・ノハ・キレィ・・

 モウ・イッ・テル・カラ」

22年前に

『7回目のベルで受話器を取った君』

「ナ・ナカイメノ

 べ・ルデジュワ

 キヲトッタキミ…」

と切って歌って一世を風靡した人の面目躍如といったところか。未だ健在、独特の符割りだな。

当然ながら、その頃と変わらない訳もなく。全く手法としては進化している。特にこのリズムのとり方が進境著しい。

自分もちょうどこのリズムの譜面を書いていた所だったのでタイムリーによくわかるのだが、この符割りに対して一定の和音を与えてあげると雰囲気が「非生命体的な知性」を感じさせるサウンドになる。知的な存在なんだけど肉体を伴っていないような。イメージとしては精霊や神より宇宙人とかアンドロイドとかに近いかもしれない。概念的な存在というか。自分はよく“metaphysical sound”、「形而上学的音像」と読んでいるのだけど、単に無機的なだけでなくどこか知的に響くのがいい。

故に『キレイなものはキレイ』というフレーズがまるで神託、託宣のように響いてくる。有無を言わせないというか、静かに確信が強くて抗う気も起きないというか。こうやってカタカナで『キレイ』と表記されているのも意図的だろう。非生命的な美を感じさせる。

そこからの『あなたの部屋に歩きながら』なのよ。いきなり日常的な風景に落とし込んでくるのだ。嘗て『Passion』で

『思い出せば遙か遙か

 未来はどこまでも輝いていた』

と時間を超越した形而上学的知見から歌っていたところから

『年賀状は写真付かな』

という卑近な日常に落とし込んできた鮮やかさをも想起させるが、ここではもっとより自然により然り気なく音もなく降り立ってくる感じで歌が推移している。確かにこれは『誰にも言わない』のあの壮大ながらも偉ぶらない、達観したサウンドを確立した人だから辿り着けた境地だ。この一年でも更に成長・進化しているといえる。いや、この歌は本来半年前に発表されていた筈なので、こちらの受ける印象以上にヒカルの進化は速いのが真実なのかもしれない。全く恐ろしい音楽家だ。いつ発表になるかは未だわからないが、アルバム全編を聴くのが怖くて堪らないよ。