無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

A,B,C,,,,me,,,

『my relationships with other people』

『my relationship with myself』

この2つの対比を眺める時に、『other people』と『myself』が同じ位置に置かれている事が重要だ。

“with other people”というのは「他の人たちと」、つまりAさんやBさんやCさんやDさんや……いう人たちが居て、ということだから

with A,B,C,D,,,,,,,,,,

と書き換えることも出来る。それなら、ここに“me”が出てきてもいいんじゃないか?というのがここの発想。

with A,B,C,D,,,,,,,,me,,,,,,,X,Y,,,,

って感じね。すると、

『my relationships with other people』

というのは、

my relationship with A,

my relationship with B,

my relationship with C,

my relationship with D,

…………………………,

my relationship with me,

…………………………,

my relationship with X,

my relationship with Y,

…………………………,

という風に書き下すことが出来る。つまり、『my relationships with other people』の中に『my relationship with me (myself)』を落とし込んだ、組み込んだということだ。

勿論、通常の意味では、“other people”というのは“people WITHOUT me”(私以外の人々)のことであるからこれは成り立たない。そこを敢えて代入してみたというのが、今回のヒカルのツイートのポイントになる。つまり、自分自身を他の人と区別しない所で眺めたら、と。“relationship”(関係)という、本来自分以外の他人との間で使う単語を自分自身に使えるのだという主張である。

そこらへんの感覚はもう『PINK BLOOD』の歌詞に端的に表れている。

『自分のことを癒せるのは

 自分だけだと気づいたから』

自分が傷を負った時、誰か他者に癒しを求めていたのだけど、もしその「他者」の中に自分自身も含まれるのだとしたら、という気づきがここにある。『気づいた』と歌うからには、それまで気づいていなかったのだ。どこかで、先入観で、或いは無意識下で、「癒し手」とは他人であるもいう前提があったともいえる。なら、誰に頼るでもなく自分自身で癒せば良い、と。

とはいえ、もう片方の解釈も忘れてはいけない。『自分だけだと』の『だけ』の部分だ。ここに至る文脈を妄想する時に「色んな人に癒されようとしてみたけれど、結局自分自身で癒すしかなかった」という諦念や絶望があると見立てる解釈も有り得る。つまり、癒し手の前提として元々自分自身も含まれていて、その上で他者にも癒し手を求めてみたけれど結局自分自身を超える人は居なかった、という結論づけである。

この、どちらの解釈が妥当なのか、どちらの解釈も妥当なのかは、今の90秒のみでは即断できない。ひとまずは、どちらも頭に入れておこうかなと。

ともあれ、そうやって自分自身を他者と同じ目線で眺めた時に何が言えるのかというのが次のパイセンからの回答になる訳だがその話からまた次回かな。