無意識日記々

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天使のラッパー(内容と無関係なタイトル)

ヒカルがラッパーの皆さんの方にシンパシーを感じているというのは予想外だった。そもそもそういう捉え方があるという風に考えてなかったというか。ヒカルにはなかなか「同じフィールドで活躍する同業者」というイメージに該当する人がいないのだが、ラッパーの皆さんならそれに相当するかもしれないということか。今から考えると千葉くん(KOHHちゃんね)を起用したのもそういうシンパシーから来ているのかな。Jevonもそういうことかな。

その割にFoxy Brownとのコラボレーションについては余り芳しく思っていないらしく、『Blow My Whistle』についてコメントすることは殆どない。「ラッパー」だなんて括りはデカすぎるとはいうものの、やはり個人個人の相性が大事ってことなんだろうかな。『Blow My Whistle』自体はとてもクールな楽曲だけれども。

で、これだけ話題にしておいてヒカルによるラップが『Laughter In The Dark Tour 2018』での『Too Proud』くらいしかない、というのは確かに認知の齟齬を生んでいて。幾らシンパシーを感じるといってもやっぱり出てくるサウンドもファッションもアティテュードもかなり違うので、クリエイター同士のシンパシーはあっても、リスナーの方がそれを共有出来ているかというと怪しい。少なくとも私はそういう風に考えていなかったからね。「ラッパーにも共感する」のだろうとは思っていたが、「ラッパーの方が共感する」とまでは感じていなかったので。

どうにもそこには、日本の歌謡界(それはいつの時代のどこの話だ?)自体への違和感みたいなものがある気がして。英語圏の歌手だったらまた違うのかな。

こんな事をつらつら考えていると、ヒカルが、歌とかラップとか歌詞とかあれやこれやを超越してとにかく「どれも声帯から出る音でしかない」を体現したコクトー・ツインズに辿り着いたのは必然だったのかなと。あれは本当に、言葉以前の何かであって、歌の原始性を集約したようなサウンドだったから。特に初期はね。洋楽のモスト・フェイバリットに彼女らの「ヘヴン・オア・ラスヴェガス」を選ぶのも納得かなと。あたしはインディー時代の「トレジャーズ」が好きなんだが。それはいいか。

っとと、ラップに詳しくないからって知ってるアーティストの話に逃げてしまった。歌詞が聞き取れないからどうしてもねぇ。次のアルバムでヒカル自身が世間でラップと呼ばれている手法を実践しているかどうか、楽しみですわね。