さてその『キレイな人(Find Love)』と『Find Love』の歌詞比較だが…これほぼそれぞれの歌詞丸ごとを繙く感じになるな? 長丁場だな? 途中で飽きたらやめるのでそれまでお付き合い下さいな(責任感皆無だなお前)。
さて、まずは『キレイな人(Find Love)』の方から。こちらが『Find Love』と相対した場合の大きな相違点は、ヒカルが言うところの「シンデレラ・モチーフ」がフィーチャーされているか否か、だ。『Find Love』の方には、カボチャも継母も出てこない。(それはキレイな人の方にも出てこないけどっ)
『キレイな人(Find Love)』では、もう初っ端からである。
『終わって欲しいところで
人生終わらない
王子様に見つけられたって
私は変わらない』
最初の2行は、シンデレラに限らず寓話のもつ「ハッピーエンド性」に対するアンチテーゼだろう。兎角御話というものは、「お姫様は王子様と末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。」で終わってしまう。でも現実の人生はそこから先も続くんだよと。御話と現実の違いを説いている。
『王子様に見つけられたって~』の一節は英語にすると
"I will not change if the Prince finds me"
という風になるだろうか。これはつまり、このあと楽曲中で連呼される
『'Til I find love』
と
"the Prince find me"
が対比になっている訳だ。見つける主体は王子様でなくて私だし、見つけるものは愛なんだと。
そもそも"シンデレラ・ストーリー"に対する現代的な批判構成は、「私」の幸せが王子様の選択に依拠している点が中心となっている。女性は男性に選ばれることが幸福なのよというメッセージは、主体的に生きようという意思を持つ女性への抑圧になりかねない、と。たかが童話とも言えるし、こどもなのだから無意識下にバイアスを仕込まれてしまいのちのちの人生に絶大な影響を与えるぞ、とも言える。まぁ確かに、レーティングで推奨年齢を謳うなら、人生の最初期に触れる物語は細心の注意を払うのが妥当だろうかな。
この、主体性を王子様に奪われてたまるかという視点は、英語版たる『Find Love』の方には見られない。寧ろそれとは一見対極にすらみえる一節も存在する。そこらへんの話からまた次回。