無意識日記々

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今週はノンバイナリー何ちゃら週間だそうです!

あれまぁ今週って「ノンバイナリー啓発週間/認知週間/可視化週間etc.」だったのね。昨日7月14日が「国際ノンバイナリーデー」だったと。すっかり知らなかったわ。迂闊!

日本語圏で自らをノンバイナリだと公表してる数少ない有名人の一人(って他にどなたがいらっしゃるのだか把握してませんが)について毎日語っているというのに、勿体ない事をしたなぁ。

いや、確かにあたしはこの問題?この話題?についてやや軽く捉えすぎてきてるかもしれない。何度も書いてきているように、あたしの男女観は「男も女も実在しない。単なる概念、或いは妄想。」という、最もラジカルなタイプなのだ。「私は男でも女でもないし、男でも女でもある」とか言われても「あらそうなのね」で済ましてしまうとこがある。別に性なんて一生話題にしなくても生きていけるものだ。呼吸や食事や排泄や環境のようにクリティカルなものではない。勿論、人によっては性無くして生きてはいけない、という人も在るだろう。世の中には宇多田ヒカルの歌なんか無くても生きてる人だらけなのだし、そういうのは他者の表現を抑圧しない限り好きにすればよろしい。男も女も“ない”のだから。

勿論、男女の概念は何億年にもわたって有用なので「そういう傾向」はあるだろう。男っぽいとか女っぽいとか、そういう性質や属性を持った個体は沢山生きてきただろう。しかし、「男」や「女」という実在はあった試しがない。もしそれが「厳然としてある」というのなら、総てのヒトの個体を男の集合と女の集合に分けてみるといい。必ず、出来ない。ヒトは多様なのだ。身体や精神は千差万別、多様性の宝庫。とはいえそれがそれぞれの人にとって望ましいかどうかはわからないが。モデル体型で皆から憧れられる背の高いあの人も、小さい頃の夢は競馬の騎手だったかもしれないのだし。

兎に角そんなスタンスで居たため、私、ヒカルが「ノンバイナリ」という言葉、概念に出会った事の重要性を最初掴み損ねた感がある。ずっと「自分が男だったら」とか「男に生まれ変わりたい」とか「女のカラダに違和感が」とかヒカルは言ってきてたから、ノンバイナリ宣言自体は驚きではなかった。しかし、ヒカルのインタビューを聴くと、かなりの精神的な、心理的な価値を得た事は明白だったのだ。

ヒカルはこんな風に語っている。

『And then the coming across this word and knowing that there are a lot of people who actually do feel something along the same line certainly. It was just a bit of relief.』

訳すとこう。

「そして、この言葉に出会って、同じようなことを感じている人がたくさんいることを知って、ちょっとだけ安心しました。」

"relief"=「安心」。案外ヒカルが使わない言葉なんじゃないだろうか。『Face My Fears』、「恐怖や不安と向き合おう」と歌う人が、relief、安心したことをこうやって話すだなんて。ノンバイナリという言葉に出会うまでは、あらゆる孤独を知る宇多田ヒカルという人にとっても、まだ掴みきれない孤独感が、孤独観があったのだなと痛感させられた。これだけ宇宙の総てを包み込めそうな哲学を持っている人でも、孤立だったり無縁だったりすることに、まだまだ不安を覚え、安心を求めるのだと。うむ、なんだろうね、私、去年のこのノンバイナリ宣言のお陰で、「宇多田ヒカルも人間だったんだな。」と思い直すことに、なったのかもしれない。まるで初めてライブでヒカルを目の当たりにして「宇多田ヒカルって、居たんだ。」と呟いた皆さんみたいだね。実在してるよ!

男でも女でもないし男でも女でもあるよ!あやふや!と言い切ることで、そこにヒトを、人間を見出せるとは、性別という概念が如何に「ひとりのひと」を覆い隠してしまう危険性を孕んでいるかという点について如実に物語っている。性別から解き放たれてその人をみる。シンプルだが、だからこそしっかり毎日押さえておきたいポイントだ。一方で、このように、カテゴライズと概念と言葉に救われることも、またあるのだ。ノンバイナリ啓発週間が、今一度そういった相反するポイントも見直す機会になれば幸いである。そうやって偉そうに語ってる私、昨日までこの週間を(習慣を?)知らなかったんだけどね!