無意識日記々

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わざわざアナログでアカペラを聴く理由

アカペラを聴く為にアナログプレイヤーを駆動させている際、妙に安心するのは何故だろう?とふと思い考えてみたのだが、なるほど、「目の前の針が盤の溝を辿って音を出している」という事実を目の当たりにしながら音を聴くというのが精神衛生上いいらしい。

昔、「(ポピュラー・ミュージックの)ライブは観るもの、(クラシックの)コンサートは聴くもの。」なんて話をしたことがある。クラシックのコンサートだと純粋にホールの音響の良さ、生音の価値というものに触れに行くことが多いが、ポピュラー・ミュージックの場合はそもそもマイクロフォンとアンプで増幅させた音を聴くのだからそれは本当の生音ではなく、生音の価値というものがあやふやだ。しかし、実際に目の前で歌って演奏している音が耳に届いている事が何より大事なのだ。間にマイクやアンプを挟もうがね。

レコードやCDや配信で音源に触れたかどうかを訊きたい場合は「宇多田ヒカル聴いたことある?」と質問するが、ライブを体験した事があるからどうかは「宇多田ヒカル観たことある?」と訊く。この違いが重要なのだ。

そもそも聴覚というのは予兆とか吉報凶報とかを知覚する五感である。耳に入ってくるのは何かと接触するかもしれないという「期待と不安の情報」であり、我々は耳に入った音の方を振り向いて、視覚で捉えたり物理的に接触したりして対象の存在を確信する。逆に言えば、音だけだと対象の存在を確信できず、期待や不安に留まるのだ。普段イヤホンやスピーカーで音楽を聴いている状態というのは、ずっと「期待と不安」を抱えたままなのだとも言える。

レコード・プレイヤーはそれをほんの僅かではあるが和らげてくれる。実際はそんなことはないのだが、レコードの溝はヒカルが歌った時の振動をそのまま記録したもので、それを今レコードの針がなぞることで私の耳に歌声が「再生されて」届いているんだなと思うと何とも言えず幸せな気持ちになれる。あれだ、少し直筆サインに似ているかもしれない。実物のサインを目にすると「ヒカルがこの色紙を手に持ってここにペンを走らせたのか」という想像がはたらき、時間と空間を隔ててなんだか繋がれた気がしてくるあの感覚に、レコード鑑賞は多少似ている。この感覚はCDや配信だと味わえない。

勿論ただの錯覚である。レコードのマスタリングはそんな単純な作業ではないのだからヒカルの喉の振動がそのまま溝として記録されている訳ではない。しかし、そういう妄想をするだけの“余地”を、アナログプレイヤーは与えてくれる気がする。その妄想の為の「気分」こそが、わざわざあんな繊細で壊れやすく扱いも煩わしいプレイヤーとヴァイナルを引っ張り出してくる動機となっている。

しかも今回はアカペラなのだ。なんとなくダイレクトにヒカルの声が記録用の針を震わせている様子が目に浮かんでしまう(地震計みたいな感じっすな)。なんだろう、この感覚まで予想してアカペラをアナログ盤限定の音源に指定したのだとしたら、発案者はかなりの切れ者かつマニアックな音楽蒐集家なんだろうなという気がしてくる。照實さんとか怪しい(笑)。しかし、もしそうだとしたら素晴らしい采配である。喝采を送りたい。

そうなのだ、確かに私はアカペラを配信にも乗せて欲しいと思っている一方で、これは是非アナログプレイヤーを回して聴いてみて欲しいなとも思ってしまっているのだ。アナログ回顧の老害なのかはたまたエピックソニーからお金を貰ってレコードのプロモーションに加担しているのかとか疑われそうだが、いやこれ素直な実感なんですよ。スクラッチノイズに導かれて朗々と響く宇多田ヒカル(15)と宇多田ヒカル(35)の歌声が、なんとも言えず、いい。また多分レコード・プレイヤーで聴いちゃったりしそうですわ。…あ、もう普段用にwavファイル作ってあるのでスマホでも聴けるようになってるんだけどね。だって外でも聴きたいじゃーん。(台無し)