無意識日記々

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「おととい」と「また逢う日」

『おととい来やがれ』

『Gold ~また逢う日まで~』の歌詞の中で最も印象的な一節はこれになるわよね。私も初聴時にこの唐突な江戸弁?に仰け反ったものだけど、ふと冷静に考えるとちゃんとサブタイトルの『また逢う日まで』と対になってるんだから面白い。何より、同じメロディだからね。

語源はともかく、「一昨日来い」というのは、「不可能な日に来い」≒「来るのは不可能」~「来るな」という意味に捉えられるだろう。否定的な単語で文全体を否定するって日本語より英語的な気がする(「神のみぞ知る/God only knows.」=「誰も知らない/Nobody knows.」みたいなやつだね)が、結論は結局「来るな」だ。

また逢う日まで」という言い回しは、そもそもは「また逢う日までお元気で」という事な筈なので、仮に相手が既に「元気ではない」のなら「もう逢えない」という意味になる。逆に「もう逢えない」なら「元気ではない」と逆方向に解釈してもいい。いずれにせよ「また逢う日」はもう来ないし「お元気で」も果たせないという、切ない一節だ。

なので、『また逢う日まで』と『おととい来やがれ』が対になってるのは一種言葉遊び的というか、「全然異なる定型表現同士が実は同じ構造の文章だった」という気づきに面白みと切なさがあるのだけど、作詞家・宇多田ヒカルの何が違うって、ここで『一昨日来やがれ』と告げる相手が

『いつか起きるかもしれない悲劇』

なとこなんですよ。生身の人間とかではなく、実際の出来事ですらない「概念」なのだ。或いは仮想とでも呼ぶべきか。しかもそれに対して

『捕まえて言う』

んですよ、えぇ。概念を擬人化してその手で捕まえちゃうのよ。この、

「かもしれない」を捕まえる

という面白さと可笑しみと切なさをどう捉えたらいいかという話からまた次回、かな。