無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

宇宙で最も濃密な4分間に向けて

前回ヒカルの歌唱時の歌い分けの一部、いやさ極一部について語った。こういう所まで聴いてくれれば『Gold~』の良さが伝わるのにな、と詮無いことを御無体にもついつい呟いてしまう。

「鑑賞の解像度」というのはどうしたって存在する。これを求めないのがPopsとしてのあるべき姿だ。なのでそういう意味では確かに『Gold~』は売れない曲だろう。そんな曲であっても無意識日記での「新しい曲に対するテンション」が変わらないのは、こちらの「鑑賞の解像度」が高いからだ。ぶっちゃけ、Popsの鑑賞態度としてそれは間違っている。が、あたしはPopsファンではなくて音楽鑑賞者としては「プログレメタラー」に分類されるので、純粋によりドラマティックで長大な楽曲を好む。そういう人間にとって宇多田ヒカルの楽曲は、解像度を上げれば上げるほど長大なドラマが出迎えてくれるのでどうしたって本能的に解像度を上げざるを得ないのだ。

前回熱弁した通り、その歌唱に於ける細かい歌い分けがヒカルのもたらす圧倒的な濃密さの鍵である。 

細かく歌い分けるだけならヒカルより巧い人間は過去に幾らでも…は言い過ぎにせよ、何人もいた。日本語で歌う人で言えば美空ひばり藤圭子の方が技術が上だなと痛感する事は多いし、現役でも石川さゆりMISIAを聴いて「かなわんなこりゃ」と感心・感動する事はもう毎年のこと。これが英語圏になると人数が何十倍にも膨れ上がるだろう。また、ヒカルが苦手な分野で卓越している人も尊敬に値する。吉田美和なんかが好例だよね。

だが、ここまで日本語歌唱の楽曲を「ドラマティックに構築」できる人を他に知らない。というかこの方法論をとってる人自体居るのかどうか? 若い人の中には、それこそOfficial髭男dismの中の人とかはかなり上手だけどどちらかというと辞書的で、知識の組み合わせという気がしないでもない(ただ、組み合わせのセンスは抜群だよね)が、ヒカルは「いちから自分で作った」感が凄まじい。

それもそのはず、ヒカルには邦楽を聴いてた時期が殆どなかったからだ。ラジオ番組「トレビアン・ボヘミアン」でもそれは明らかだったし、『Kuma Power Hour』でも日本語音楽家の曲がかかると言っても主に知り合いを取り上げてただけだったからね。

だが、これが功を奏した。三宅さんから「日本語で歌ってみない?」と言われた時に最初から自分で作詞する事を選択し、当然のように作曲も手掛けた。ここで私の推測を入れると、その『Never Let Go』を作曲するにあたって、ヒカルは既存の日本語楽曲を殆ど参照しようとしなかったのではないかな。第一、曲がスティングなんだもの、どっちを向いていたかは明らかだろう。

「歌詞というものはどうであるべきか」といった基礎の基礎は洋楽でも学べるが、日本語のアクセントやイントネーションをどうやって平均律音階に載せるかという数々のノウハウに関しては、独学どころか「独自開発」だったように思われる。

なので、例えば、散々何度も繰り返してきているように(もう言い飽きてきてる(笑))、『Automatic』の冒頭の出だし『ななかいめのべ・るでじゅわ』という切り方と乗せ方は「まだその手法を開発し始めたばかりの手慣れてない、確立されていない未熟な段階での成果」に過ぎなくて、ここからヒカルの作詞術はどんどん進歩・進化していったのだ。

一方、過去の日本語曲作詞手法を知っていれば知っているほどそれは「斬新」に映った事だろう。なので、ボタンの掛け違いは最初からだったともいえる。折角なので(土曜日だから読んでる人少ないだろうからね)もっと踏み込んで言うと、そこで掛け違ったままここまで来たから『Gold~』は売れてない、とも言えるのだ。うむ、かなり思い切ったねその言い口は。(自画自賛

英語圏の著名な商業的歌手の歌唱の中には、ヒカルより細かい歌い分けができる人は何人もいるのだが、ヒカルほど作詞作曲と歌唱を結びつけて楽曲全体を構築している人を私は知らない。単に無知といわれればそれまでだけど。クラシックのジャンルには居そうなのだが生憎歌詞がラテン語だったりするので「×歌詞」の部分で上がる解像度がとんと私は把握できていない。これは純粋に残念。そして、日本語歌曲のクラシック歌唱でそういうのがあるとはついぞ聴いたことがない。

ヒカルは、メロディ・リズム・ハーモニー・アレンジ・バックコーラス・歌詞・歌唱を総て掛け算にして楽曲の時間当たりの解像度の桁を上げる事が出来る。組み合わせ爆発ってやつである。なので、私のようなプログレメタラー宇多田ヒカルの曲を「そういうものだ」と自覚して聴いた場合、ヒカルの4分の曲を聴いたときに味わえるドラマの量が20~30分のプログレ組曲と同等以上となるのだ。だから、本気で味わうと結構疲れる。(笑) プログレがわからんかったら「クラシックの交響曲全楽章分」とかでもいい。或いは、映画なら1本分、小説なら大体120ページくらいだ。星新一並みに内容を圧縮しまくった場合に、だが。

そういう意味では、宇多田ヒカルの楽曲というのは「最も短時間で最も濃密なドラマが味わえる芸術作品」なのだ。それを言うなら名画を鑑賞して感動を得る時は4分とかではなく「一瞬」なのだけど、私の場合絵を全体にみた第一印象の次に「その絵の細部をよくよく観る時間」や「その絵の含意を理解するためのキャプションを読んでる時間」も吸収してやっとその「初見一瞥のインパクト」を「満足な経験(fruits)」として落とし込める為、結局4分とかでは全然足りなくなる。4分間で「ええもん聴いた!」と自信を持って言わせてくれるからこそ私は宇多田ヒカルなのだ。そして、そこから「自分自身に本当に落とし込む」為にこうやって無意識日記を書いていて、それはまだまだ全然終わりそうにない。何十万字綴ろうが何千回投稿しようがまだまだ「理解が浅い」と痛感させられ続けている。

ヒカルはまだまだ成長する。それは、私のこの「わからなさ具合」がまだ4分間に封じ込められ切っているとは思えないからだ。そして、音楽要素の掛け算(メロディ×リズム×ハーモニー×アレンジ×コーラス×歌詞×歌唱×…)は、デビューしてからずっと力量単調増加、巧くなる一方であり、短い時間に込められるドラマの濃密さはますます増している。将来的にはもしかしたら声域が狭まって、メロディの幅や歌い分けの幅が幾らか少なくなる事態になるかもしれないが、掛け算の上達がそれをカバーして上回っていくだろう。なので、ヒカルの曲はスケール感をまだまだ増していく。そういう意味では目下『Gold~また逢う日まで~』は、ドラマの濃密さに関しては最高傑作と言えるのだが、私には残念なことに(?)、宇多田ヒカルは自らをポピュラー・ミュージックの音楽家であると規定している。それはもう宇多田ヒカル(芸名)の定義の1つと言ってよく、その為にはとても『Gold~』を最高傑作とは言えない。この2つの感情の組み合わせで、無意識日記のトーンは大体「いつも通りのテンション」に落ち着いているのである。

それに、要素毎にみれば、例えばメロディや歌詞といった各ファクターでいえばまだまだ『気分じゃないの(Not In The Mood)』がモスト・フェイバリットの一角を占めていたりするし、『光』や『Passion』や『Kremlin Dusk』やあれやこれや『桜流し』の唯一無二さもなんら変わらない。そういう意味ではヒカルはゆらゆら揺れながら進歩していて、いっとき売上や再生回数が他と較べて落ち込んだとしても、「作曲家としての各要素・技量のブラッシュアップの途中」でしかなかったりするので、何の心配もしてない。むしろ、『Automatic』のように未熟なのに絶賛される方が心配だ。ま、好意的な評価自体は嬉しいけどね。

そして、最も濃密なドラマはやはり「宇多田ヒカルの音楽家人生全体」なのであって、これについては目下連日毎日絶賛観賞真っ最中なのだった。宇宙の最高傑作は間違いなくこれだろう。願わくば、それをもし4分間に圧縮できたら宇宙と人類は次のフェイズに移行するだろうね。それまで生きていたいですわ。