無意識日記々

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どうしてだ老化 少しだけ不安が…残ります?


ドラマ「君が心をくれたから」は「雨ちゃん(永野芽郁)が日々五感を失っていく」ところがストーリーの柱となっている。甘々のラブストーリーかと思いきや、この要素を以てしてラブ・ファンタジーと形容されてきた。


確かに、数週間ずつ、それもある時刻を過ぎたらいきなり五感のひとつがシャットダウンされるというのは余りにも非現実的な話でファンタジーと呼ばれても仕方がないのだが、これが数年や数十年、そしてある時刻にいきなりではなく何年もかけて徐々に、ということであれば現実ではとてもありふれた現象となる。老化っていうんですけどね。


歳をとると五感がどんどん衰えてくる。最もポピュラーなのは老眼で、近くに焦点が合わなくなる。かといって遠くがよく視えてくる訳でもないのでこれは単純に悪化や劣化と呼ばれる現象だ。鼻も利かなくなるし、味覚の衰えは、特に夏場に傷んだ食材を見抜けなくなるという意味では健康に、いやさ生死に関わってくる。雨ちゃんみたいに唐突でなくても、人は長生きすればするほど少しずつ五感を失っていくのだ。


特に聴覚は、かなりの人があからさまにその能力を失う。老人に話を聞き返された経験が無い、という人は少ないのではないだろうか。「耳が遠くなる」というのは「老眼になる」よりずっと度合いが甚だしいというか、単なる老化で失明にまで至るよりも失聴の方が身近に感じられる気がするのよね。


それに、衰え始めるのも早い。こどもの頃、ブラウン管のトランス音がうるさいと大人に幾ら訴えてもわかってもらえなかった事を思い出す。成人すると確かに、15000Hz以上は聞き取れなくなった。もうその頃から衰え始めているのだ。補聴器もだいぶポピュラーになったけどまだまだ高価で、メガネほどの手軽さには程遠い。


リスナーとしても日々自分の聴覚の衰えと向き合わされているが、送り手としてはどうなんだろうね? 猫よけの超音波まで聞こえてしまっていた宇多田ヒカルさん、今でもその人間離れした聴覚は健在なのだろうか。まだ40代に入ったばかり…多分まだまだ大丈夫だとは思うが、今年はホール/アリーナでのコンサートツアー。リハーサルから本番まで、イヤーモニターでガッチガチに固めてその至宝たる聴覚を守り続けて欲しいものだ。ステージの大音量に晒され続けて聴覚を衰えさせていくのはかつてはライブ・ミュージシャンの宿命だったけれど、今の時代なら何とかなっていると信じたい。


ただ、今後の創作には影響が出てくるかもなぁ。高音域を認識できなくなっていくと、生まれるサウンドもギラつかないというかくぐもった音質になるような気がしないでもない。それは聴覚の衰えの他にも音楽的趣味や興味の変遷など他の要素に拠る所も大きいのでそこだけ取り出して論じる事は難しいが、今回の新しいリレコーディングやリミックスの全体の傾向から読み取れる事も何かあるかもしれないね。余りにも見た目が若いので勘違いしがちだが、昔は「初老」といえば40歳のことを指していた。今後は、あの宇多田ヒカルですら老化や衰えとは無縁ではいられないかもしれないのた。そんなことを、「君が心をくれたから」に触れながら考えてしまったのでした。だから、今後はコンサートひとつひとつの重要性、貴重さが更に格段に上がるだろうね。いろいろ元気なうちにしか出来ないパフォーマンスが、幾つもあるだろうからさ。