無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

内面

インターネットが人生のライフライン、基本インフラになってしまう事に心理的抵抗はない。他にも上下水道・ガス・電気等様々な供給を受けているのだから情報について特別視する必要もないだろう。しかし、それと共に何を得、何を失うか、どこが衰えていくかについてもっと自覚的であってもいいと思う。

特に検索力が上がってくると、嘗てあった"純粋な内面"が薄れていくような気がしてならない。自分と似たような考え方、感じ方をする人間がすぐに見つかってしまうことで内面は常に関係性の中に溶け込んでいく。勿論、慣れてないうちは「こんな事を考えているのは私だけかもしれない」という思いを抱えているものなのだが(なので「〜って私だけ?」という言い回しは徐々にしなくなっていきます)、各種SNSがそういった感情の受け皿、入り口になったりしていてどんどんと自分自身の"居場所"が―たとえ明示的に参加していなくとも―定まってゆく。

そうして自分を"地図"の上に置くようになると、外界と隔離され遊離した内面の作用がなくなってゆく。Twitterはその点最も先鋭的で、本来誰にもきかせないような"独り言"を全世界に向かってバラまくのだから内面の顕在化の点では抜きん出ている。

そういう"ネットワークへの展開力"とはまるで逆の感触を持ち続けてきたのが"Message from Hikki"だ。理由は単純で、コメントもトラックバックも、かつてはハイパーリンクさえも備えていなかった。純粋に光の言葉で綴られた空間は、私とあなたを"相対させる"効果を十二分に含んでいたのである。

一方Twitterは、有名人と一般人(なんて書き方は妥当かどうかわからないが)をフラット化しつつ、フォロワー数で各人の非対称性の表現も含むという秀逸な構造をもつ。光も、その手軽さで気軽に呟き気軽に呟き返される。だが、お陰で彼女の話すことばは"私に向かって"放たれている風には最早(あんまり)感じない。メンションされたとしても、広場の中での2人のやりとりは広場の中の点と点と線として消化されてゆくのである。

どちらがよいということではなく、いずれも人の営みに普遍のことがらである。ただ規模が大きくなり圧倒的にスピーディーになっただけだ。メッセもツイートも、状況に応じて使い分ければよい。光くらいになると、内面をネットワークの中で消化しきれない事が問題になっていくのだから…という話になると長くなるので今回はこの辺で。