無意識日記々

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瞑想の迷走

今度はツイッターではるかぜちゃんとZ武様、ちゃうがな、乙武洋匡さん(おぉ、辞書にフルネームが)が会話をしていて、有名人ならではの悩みの相談になっている。心ないことばに胸を痛めるだけでなく、笑い飛ばして前に進めるように、という彼のことばは、重いはずなのに爽やかで風通しがいい。彼ほど「リア充爆発しろ」や「ただしイケメンに限る」の似合う男はそうそう居ないのだが、なのにν速の民たちに「勘弁してくれ」と言わしめてしまう耐性の強さは素晴らしい。ネット世代のお手本のような人である。

思うに、きりやんは自分の精神力が並外れていることに気付いていない、或いは無頓着なのだろう。乙武洋匡さんがああいう風にネット耐性が強いのは、自分の弱さを知っていて、尚且つ自分の強さも知っているからだ。煽られようが貶されようが平気なのは、言われる前から自分にそれ以上厳しい言葉を投げかけているからであって、何の準備もなくあそこまで格好いい訳ではないと思うのだ。

これは時代の必然かもしれない。まだまだ不十分だが、ネットで溢れる言論は、その殆どが何らかの意味で弱者なひとたちから発せられるものであって、それに共感する発言ができないとオピニオンリーダーシップがとれなくなっていくのではないか。勿論世の中全体はまだまだそうはなっていないが、一日中部屋に籠もって2ちゃんを眺めている人が"ふつう"だと思える位でないとバランスが取れない。ひろゆきのバランス感覚は、誰よりも早く(管理人だから当たり前だが)そういった展開を先取りしていたから培われたのではないかと勝手に思っている。そういうバランス感覚が元々あったからあんな板を立ち上げられたという逆の因果かもしれないけど。

いろんな人に話が飛ぶな。まぁいいや。きりやんは、自分の芸術性に自信を持っているし、それを具現化する為には様々な犠牲を厭わない強さをもっている。強さ、カリスマ性が持て囃される時代なら彼はヒーローだったかもしれない。しかし、情報が溢れ返るこの世界では、エネルギッシュを披露しても響かない。求められるのは、卑屈とか落胆とか焦燥とか不安とか茫漠とかいった感覚を共有できる何かなのだ。

そう考えると、宇多田ヒカルはまだまだ早過ぎる。そこにおいてはあらゆるコミュニティが解体され、あらゆる個は個と向き合う事になる。あらゆる弱さはそこで赦され、故に赦せない者は道に迷い込む。すぐそばにいるのに。まだ世の中はそこまで来ていない。寧ろ、例えば深海とか宇宙を開拓していけばまた時代精神は逆戻りするかもしれないし、様々な新興国がもう一度水俣病を繰り返すかもしれない。人の歩みは緩やかで迷いがちで、突然途絶えてまたふりだしにもどる。光に辿り着くのは難しい。だってもうすぐそばにいるのだから。

強さの定義が変わっているのかもしれない。光は億万長者だろうが、1万ドル寄付したって「何もできない」と臍を噛んでいる。これは、幾ら払っても止まらない思いだ。知名度や財力や歌唱力で他を圧倒する強さも持っている。それは、古典的な強さであり力である。しかし、彼女の魅力がそこにあると考える人は明らかに減っているのではないか。寧ろ、そういった古典的な強さを備えてしまったから押し出されるかたちで宇多田光はこんな所に来てしまった、のではないか。

そういう、代表。難しい。彼女が独りきりなのは、何故なのだろう。いや、イヤな意味ではない、もちろん。ただ、孤高とも違うし、ただ寂しいだけの孤独でもない。昨夜の皆の嬉しそうなツイートを読んで「心底どこまでも愛されているなぁ」と笑顔に緩んだあの感じの、孤独。まだ彼女を描写できる幾何学はみつかりそうにない。まぁだから歌うのだろう。世界全体にこの"いい孤独"を響き渡らせる為に。