無意識日記々

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斯く恋慕

Parodyでは最後の"君"を聞き手がどう解釈するかが高速道路別れ道だと書いた。その"君"が聞き手の方を向いているのか、まるで違う方向に向かれてしまったと思うのかは、聞き手であるあなた次第だ。しかし、まさにその点をまるごと聞き手に投げてしまうような、いや投げかけることさえせず、ナゾナゾをそのままそこにぽつんと置いて去っていってしまう歌がある。『次は君次第』。そう、海路である。

この歌の歌詞はシンプルでありながら、いや、必要最低限の言葉しか綴られていないからこそ解釈が難しい。基本的なことだが、歌詞の解釈に正解なんてない。各々がそれぞれに感じた事を大切にしていけばいい。しかし、その歌詞が誰かに書かれた以上、そこには何らかの解釈が最初の最初にあった筈で(でなければ歌詞なんて書けない)、私はそれを知りたいだけである。

かくれんぼ(が)次は君次第、というのは何の話なのか。対になっているのは『私は果てしない』と『鬼は出てこない』だ。"鬼"を辞書で引くと《「隠(おん)」の音変化で、隠れて見えないものの意とも》とある。隠れているのは鬼なのか私なのか。或いは鬼とは私なのか。かくれんぼって鬼は探し出す役目の方じゃないのか。

仮に私が解釈するのは、一番と二番と三番でそれぞれ異なった意味をもち、共通するのは"隠された何か"なのではないか、という事だ。

一番では前段で有名な『額縁を選ぶのは他人』という一節がある。私の感情の表現である"絵"も、人に見せ伝える時には額縁をつけて、つまり何らかの偏見/バイアスなしではままならない。私の無限に広がる感情は、有限な枠の中に押し込められる。でもそうしないと伝わらない。果てしない私、本当の無限に触れ合える私は額縁の枠の中に隠されてしまっているのだ。ここでのかくれんぼは、アーティストとしての、表現者としての根源的な葛藤の事―自分の無限を人に直接伝えられないこと、それが人々の見えないところに存在する事を表現している。

二番では『もう一度父と話したい 晩年のある男の願い』とある。亡き父の年齢に達して漸く共感できるようになった。しかし、今はもう会って杯を酌み交わす事もできない。この後悔は人の人生に於いて不可避的なものである。ここでは非常に直接的に、鬼とは"死"の事であると解釈したい。人の思いを永遠に隠し閉ざす"死"。それが父親の思いと男を断絶させた。その断絶が解けつつある時もまた"晩年"、死が身近に迫った時間帯なのではないか…。

三番は更にシンプルに解釈する。『今日という一日は最初から決まっていたことなのか』―ここで隠されているのは、人の運命を決める宇宙の秩序の事であろう。その存在に対し殉じるのか、自分の力で運命を切り拓くのか、次は君次第という訳だ。

作品に隠された表現者の思い、親の子に対する思い、宇宙と運命の意志、それぞれがを隠す断絶と死と絶望。諦めて受け入れるかそれとも―聞き手に投げかけ、置かれているナゾナゾは、そんな風に壮大なものかもしれない。だとすれば、それを"かくれんぼ"という幼い言葉で表したこの作詞のセンスには敬服せざるをえない。あたしゃあんたと話がしたいよ。