無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

摩訶不思議な透視と記譜の話。

さて、ここからが今夜の本題。

ヒカルはSingle Collection Vol.1の表紙詩で自ら書いた詞が"自己予言"的であると吐露していた。これは、裏を返せば、書いた時はどういう事だか、何の(真の)意味があるのかわからなかったという事だ。

私自身の経験の話をしよう。パソコンで楽譜を書く時、それがどう鳴るか事前にわからないフレーズであればある程、そのフレーズは素晴らしい。私は、それを書いた時にどんなメロディーなのか、どんな響きなのかさっぱりわからないのだ。あの、"いい模様が書けた。さて、どんな音楽なのかな?"と思いながら再生ボタンを押す時の、期待と確信に満ちた心象は何にも代え難い。

そう、それが何であるか知らなければ知らない程、それが素晴らしい何か、よい何かであるという確信はより強く、より明るくなるのである。摩訶不思議な感じだが、とすると、あなたは何者なのだと知ろうとした事で確信が壊れてしまったのではないかという気がしてならないのである。

とすると、希望とは偽名であったのではないか。そこまで行かなくても、確信を満たすには何かが足りず、その為に道を逸れていってしまったのではないか。

光は、表紙詩でこうも言っている。「どんな道であれ私が選んだのだからHomeに辿り着く」のだと。逸れた道は、光の選んだ道ではなかったのだろう。光が何者であるかを知ろうとすればする程、確信から遠ざかる。確信と共に在る為には、自ら未知と、それに伴う無知を作り出さねばならない。孤独という幼名を、確信が初めもっていた事は確かなようだ。

さて、希望でなくば我々は何に依れば、拠ればよいのだろうか。それをこれから探しに行かなくてはならない。光がHomeに辿り着く為に、僕らにはきっと、ほんのちょびっとずつ出来る事がある。どれだけ自ら未知を生み出せるか。それが道を開き、確信に満ちた光をHomeへと誘(いざな)う。遠き歌声たちの祈りは、確実に僕らを前に進めているのだ。ゆっくり、しっかり、あせらず、たゆまず、おこたらず、まずはこの夏を過ごす事にしよう。


しかし、今日は暑かったな!