無意識日記々

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Passion/SanctuaryInTheFlesh'10

Passion/Sanctuaryは、In The Flesh 2010の中でも最も特別な曲だったといえるだろう。そもそも、半年の空白があったとはいえ、UtaDAの2ndアルバムに伴うプロモーションツアーでEMIからリリースされた曲をあれ程沢山歌うとは、当初私は考えていなかった。英米には"宇多田ヒカル"のファンも沢山居る、という事を踏まえた判断だったのだろうが、それにしても大胆である。

日本語曲と英語曲が入り混じるセットリストの中でこのP/Sはひとつの楽曲の中で日本語バージョンと英語バージョンを同居させるという思い切った手段に出た。更にOpening VersionとSingle Version各々独自のパートまでねじ込んだ。ファンの望む事なら出来る限りやってやろう、と日本語曲も英語曲も歌う過剰なまでのサービス精神を発揮しまくった、このツアーの象徴的楽曲となった。

そう、サービス精神。果たして、光はどこまでエンターテイナーとして振る舞い、即ちアーティストとしてのこだわりを"犠牲"にしたのか、今度はその事が気になった。普通は、自分の作り上げた楽曲や世界観を崩してなるものかと躍起になるものだが、特にこのP/Sの全部盛り状態はやりすぎなんじゃないかという位に神々しかった。

ひとつ考えられるのは、このP/Sにおいては歌詞の扱われ方が他の楽曲と異なるのではないかという事だ。同じく両語バージョンが存在する光/S&Cでは、歌詞に合わせてメロディーを変える程に、歌詞とメロディーが分かちがたくつながりあっている。しかし、P/Sは、例えばテイク5のように、詩として音楽の中に取り込まれているとしたら、それぞれの言語で歌われたパートが独立して存在し、アーティスティックな見方をした場合においても整合性がとれている、世界観が崩れない、と判断したのかもしれない。Opening Versionのパートも、うまい具合に切り替えの機能を果たしたともいえるし。

ただ、作り手のひとつの態度として、自分のだから自由にしていいでしょ、という感覚がある。Animatoの自前訳詞が新谷さんのそれに較べ原詞のニュアンスを大胆に切り落としていたように、自分で書いたものだからどこまで何をやっても大丈夫なのかが見極められたのかもしれない。

いずれにせよ、P/Sは、当時(といってもつい昨年のことだけど)の英米のファン層の質なくしては成り立たなかったバージョンであるとはいえるだろう。日本で開催されたWILD LIFEではPassionだった訳だし。EMIに契約を統一した今、もう未来永劫このバージョンでは演奏されないかもしれない。そう考えると、一刻も早くITF2010の映像作品化が(やっぱり)待たれるというものだ。まだかな。頑張れば宇多田・酢キング・照實さんっ。