無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

私の時間の1

twitterは、眺めているだけだと自分の時間が失われていくだけである。フォローもリストも総て自分で選んだにも関わらず、そう感じるのは、なぜ。(さぁ、ね) ここは常田節でな。

という訳でタイムラインを離れた時に何をするか。そもそも離れられない重症者も居るかもしれないがそれが特に問題だとは思わない事にするのでここでは取り上げない。で、何をするか。自分の好きな事をすればよい。

Webにはありとあらゆる"評価"が溢れている。ご飯を食べに行こうと料理名や店名で検索すると、献立や住所より先に誰かが味を評価している場面に出会す。電化製品を買おうとすれば、AmazonKakaku.comにはユーザーレビューがお出迎え。何をするにもこうだ。

心が強い人はいい。そういうのは参考程度に留めておき、自分の趣味嗜好は貫いてみせる。ならいい。しかし殆どの人は、自分が気に入ったものを誰かが同じように感じてくれていないと、どうしたって不安になる。テレビでワイプ芸が定着したのはいつ頃だったっけ。

そうやって共感を発見して安心を得るだけなら、いい。しかし人はいつのまにか倒錯を始め、自分が好きかどうかを確認する事なしに、ひたすら人と共感を得れる何かを探し始める。twitterで自分好みのタイムラインを構築した筈なのにいつのまにか疲れてくるのは、この倒錯の隘路に紛れ込んでしまうからだ。そっちには何にもないよ。

という訳で、タイムラインを離れて何をするか、だが。これが本当に難しい。このBlogを読んでいるくらいだから、あなたもその"自分の時間"からWebにまた帰ってくるだろう。そこで誰も評価をしていない何かなんて、手元にあるだろうか。勿論、検索しなければ評価は見えない。それで解決である。いや本当に。

でも、どこかで目にしてしまった時、あなたの過ごした"自分の時間"は、大衆の評価の中に溶け消えてしまう。何かを食べようが何を聴こうが読もうが観ようが、誰かが必ず何かを言っている。私の"私だけの時間"は、最早夢の中くらいにしかないのではないかと思えてくる。

ならば、夢をカタチにすればいい。自分から何かを生み出す事だ。そこには"私だけの時間"が有り得る。"私の子ども"とは、まずは私の時間として現れるのだ。しかし、子どもはすぐに成長して、その子独自の時間を過ごすようになる。似ている事の儚さ。生む事と失う事。光が"子ども"と呟き唄う時には、そんな感覚が必ずあるんだと思う。Deep River+然り、Goodbye Happiness然り…

…毎度の事だが、時間が足りないからって最後の段落で急に文章の密度上げるのやめてくれるかな〜読みづらいよ。という訳で、この続きはまたいつか。