無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

"ふんとう"と読むと安曇野っぽい

こういうスタイルで毎日書いていると、書きたい事が書ききれなかったり、そもそも書こうとしていた事と関係無い話になっていたりと様々な事がある。文章が苦し紛れにみえる時は、ネタがなくて困っているというよりは「はて今ここはどこなんだ?」と迷子になっている事が多い。

「迷子に なろう」。

ヒカルが昔エミリー・ザ・ストレンジを訳した時に出てきた台詞である。原文はGet Lost だっけ。忘れた。目標を見失う事を目標として立てる、というウソツキのクレタ人みたいな標語。翻訳とはいえ、ここにヒカルの思いみたいなものが込められているように感じるのはでしゃばり過ぎだろうか。そういう共感があるからこそ、翻訳を引き受けたんじゃないか、とは推測できるんだけど。

人間活動は、この、「迷子になろう」の如く"何の目標も予定もない所に飛び込もう"という意味なのか、それとも真逆の、人並みに予定のキッチリした、未来日記をなぞるような生き方をしてみてるのか、どちらの解釈が当てはまるだろう。

アーティスト活動が人間離れ、monstrous―化け物じみているのは、作品が人間としての創作者の意志や意図を飛び越えて現出していくからだ。まるで、自分が自分より大きな何かに操られているような感覚―人間から離れた何かの存在を深く感じる事がアートだともいえる。その場合、アーティストに出来る事はそれこそ「迷子に なろう」という決意と覚悟しかない。何か予定を立てても、結局は飲み込まれ翻弄され、気がついたら当初は思いもよらなかった作品が出来上がっている。時にイビツで、時に美しい何かが。

人間活動という言葉が、アーティスト活動という言葉との対比で生み出されたものだとすれば、この点から考えると迷子にならない、ちゃんと目的地と予定を企んで歩き始める計画を立てて生きる生き方を指すのだと解釈する事も出来る。

出来た、のだがもし光が何かを計画していたとしたらそれは早速頓挫している。311の影響で日本からの出国を、Exodus'11を1ヶ月以上遅らせているのだ。天災なんだから仕方ない、日本は全体で"予定が狂った"んだから、と言ってしまうのは容易である。しかし、なぜか大人物というのは自然と自然と歩調があってしまうものなのだ。昔その例としてウォーターセブンでルフィが怒った時大波が押し寄せる描写をわざわざ尾田栄一郎が入れた話をした覚えがあるが、ここまで規模と影響が大きい話だと流石に我田引水にも限界がくる。

だが、本当の所はどうなのか。時が過ぎてからでないと、わからないだろう。時が過ぎても、わからないかもしれない。そう簡単に"人間で居られる"のか、アーティストという生き方に対する自問自答こそが、人間活動の核たりえるのかもしれない。