無意識日記々

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深慮遠望と深謀遠慮

NHKのニュースを見聞きして驚いた。リビア情勢より東海岸地震より与党代表戦より柔道金メダルより島田紳助引退のニュースの方が扱いが大きいのである。大橋巨泉上岡龍太郎同様、名司会者の早めのリタイアというだけなのにこの扱い。伝わってきていないだけで、世界の中では我々の与り知らぬ所で様々なコトが起こっていると思わずにはいられない。

ネットでの評判は兎も角、彼の才能には確かなものがあった。業績は枚挙に暇がないが、羞恥心に端を発したヘキサゴンファミリーのCDの売上は見事なものだった。

冬のソナタが流行した時も思ったものだが、恐らく業界内に居ると最先端の動向にとらわれ過ぎて世の中の"実際の"ニーズを一世代分位ごそっと見落とす事がある。ヘキサゴンファミリーも、テレビを楽しむ家庭にわかりやすい歌謡曲を提供する、という嘗てあったが昨今は廃れていた方法論で(或いはノスタルジーも相俟って)ヒットをしたように感じられる。幾ら21世紀になったとはいえ、庶民の生活スタイルは(ケータイを弄るようになった位で)そんなに変わらないのだから、そういうニーズが健在なのは当然なのだが、コロンブスの卵のようなもので、実際にそれを仕掛けてみようと思い立てるか否かが肝要なのだ。

別にそれは日本に限った事ではない。アメリカだって流行に聡い人たちはそんなに多くなく、かなりの人たちが(少なくともメディアに対しては)暢気に暮らしている。ここ20年、私はそういった緩めの動きの指標としてBon Joviの音楽性を参考にしている。彼らが何かを取り入れて発表する頃には、大体世間的にその何かの周知が進んでいる、と判断するのだ。最先端からの遅れ具合が丁度いいのである。

ヒカルの場合、和製R&BブームがMisiaによって切り開かれたタイミングで登場したのが、実に"丁度よかった"印象がある。流行から遅れているタイミングでもなく、かといって最先端という程尖ってはいない、何となく流行に敏感な人もテレビを楽しむ庶民に対しても手を出すのに抵抗がない感じが、PVにも楽曲にも漂っていた。

昨今のヒカルは、どちらかといえばお茶の間から王道というか、昔"歌謡曲"と呼ばれたジャンルが担っていたポジションを期待されていた気がする。まぁ上に私が挙げたアメリカのBon Joviみたいな感じなのかな。もう彼らも30年になるけどね。光が戻ってきた時にも、高齢化が進むこの国の庶民の生活はそんなには変わっていないかもしれない。また、FoLやPoLのようなヒット曲を期待されるだろう。それに今度も応えるのかはたまたBe My Lastのように裏切りにかかるのか、どっちに転んでも楽しめてしまう私は無責任にニヤニヤしながら期待せずにはいられない。