無意識日記々

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どや顔

ヒカルの歌唱法において唯一、でもないけれど技術的に昔の方がよかったなぁと思うポイントがひとつある。それは"自信"である。

自信の何が技術なのかという感じなので、その話をしよう。

極初期のヒカルは、歌う時自信満々だった。どうみても「どうだ俺は歌がうまいだろう、とびきりのソウルを聴かせてやるぜ」という顔をしていた。恐ろしいのはその自信に見合う歌を実際に聴かせてしまっていた事だったが、兎に角表情を見ているだけでああこいつは歌が上手いんだろうなぁと思わせた。

ふてぶてしさ。これこそがこの後ヒカルから消えていく性格要素である。冷静に聴けば、20代はイケイケ!で聴かせたCOLORSとSimple And Cleanの方が、最初の地上波出演で聴かせたFirst LoveとIn My Roomより遥かにエモーショナルなのだが、二十歳に成り立てのヒカルは久々の露出という事もあってえらく不安げに緊張していた。

いやイケイケに限った話ではない。いつからか、というより徐々に表情が不安げになっていったように思える。

そして悪い事に、実際に声が出ていない日もちょくちょく見られるようになっていったようだ。私は実際に観ていないのでわからないが、ボヘサマでも日によっては、という事があったらしい。徳島の件を思い出すと(な、懐かしーっ!)やはり体調面で不安があったのかもしれない。

やはりツアーやテレビ出演といった"過酷な日程の中で安定した歌唱を披露する"という能力は、ヒカルに予め備わっていた訳ではないらしい。当たり前だ。誰だって数をこなして安定していくのだ。ヒカルに限った話ではない。

多分、根が真面目なのだ。いや誠実といった方がいいか。或いは負け嫌いな性格もあろう。とにかく、このWild Lifeを除くIn The Fleshまでの10年、光は常に「今夜は声が出るだろうか」という不安と共に歌ってきたように思う。

そしてその不安が顔に出ていた。そこがいけない。

ひとは、誰かが自信満々に披露したものに対して、なかなか疑義を挟めるものではない。たとえオリジナルとメロディーが変わってようが歌詞が変わってようが、歌い手が自信満々で「これでいいのだ」という顔で歌っているて「あぁ、もしかしたら間違えたんじゃなくてこれがライブバージョンなのかもしれない」となんとなく思えてきてしまうのだ。この、なんとなくというのが大きい。いつの間にか、聞き手が眼前の歌唱を肯定してしまうのだ。そして、それでいいのである。

だから、歌い手は自信満々で歌わなければいけない。聴衆に不安を与えてはいけない。あらゆる手を使って自分のパフォーマンスに納得して貰わなければいけない。だから、自信は技術的なポイントなのだ。

生歌とは、要は聴き手が満足すればOKなのだから、音程がハズレてようが歌詞を間違えていようがそれは二の次でしかなく、まず歌い手が自信を表情に、振る舞いに行き渡らせて聴衆を説得する。寧ろ幻惑する。それ位でなくてはいけない。

だから、初期のヒカルの方が歌が上手いと感じる場合は、まず目を瞑ってみた方がいいかもしれない。あのどや顔のせいで、余計に上手に感じているのかもしれない。わかんないけど。兎に角、自信の表情は重要なのだ。そのリラックスがまた正のフィードバックとして歌に影響したりするし。

しかし、光も実はそんな事は百も承知だ。アレサ・フランクリンのライブを初めてみたとき、最も感銘を受けたのは彼女のステージにおける"Confidence/自信"だったとはっきり明言していたのだから。わかっていてもあれだけいつも不安げな表情で歌い続けていたのは、ひとえにどのステージも自分のベストの限界を押し広げる"チャレンジ"であったからに他ならない。

自身の実力を過小評価でもなく過大評価でもなく、究めて的確に正確に把握できていたからこそWild Lifeは成功した。それこそが真の自信といえるだろう。あの落ち着いた笑顔は、紆余曲折を経て漸く辿り着いた、いや"追いついたペルソナ"、ステージシンガー宇多田ヒカルのそれであったのだ。