無意識日記々

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タイムマシン・オルタナティヴ

では、その、必ずinconsistentとなる、即ち首尾一貫性のない、どこかに矛盾を孕んだ"タイムマシン"という概念は、一体全体何であるのか。妄想とか錯覚とか幻想とかいって片付けるのは簡単だ。簡単故にその解釈はつまらない。だから私は片付けない。お陰で部屋は散らかる一方でさ…いやそれはまぁいいんだが。

妄想だろうがinconsistentであろうが、それが人を惹きつける何かである限りそれは存在である。言葉があり、それを語る者が居さえすれば、その言葉が割り当てられた実在の対象なんかあろうがなかろうがそれは(ある意味において)存在しているのだ。

つまり、タイムマシンとは今も昔も文学の主題なのである。もしかしてSFを日本語で"文学"と呼ぶのに抵抗がある人も居るかもしれないが、少なくとも私にとってSFは文学のコアである。20世紀末の純文学と謳われた新世紀エヴァンゲリオンにSFの要素が色濃いのは必然なのである。

前に書いた通り、音楽のような実存芸術と比較して、文学は定義があやふやだ。その、あるんだかないんだか、有か無かという際(きわ)を渡り歩き、たまに無側に落っこちてしまうのが文学である。梶井基次郎の木寧木蒙(変換がなかった(笑))を映像化しても面白くもなんともないが、文章で読むとえもいわれぬ感覚が心の中に生まれる。たとえ私らが今レモンを目にした所であの感覚はやってこない。実在物とはあんまり関係ない(ここらへんもあやふや)言葉だけの存在、何かが私たちに齎すもの、そのありようを文学と呼んだり呼べなかったり(やはりあやふや)。

星新一はSFの大家だが、彼の簡潔な文体とハッキリとしたストーリーは映像化に向いていると思われているのかもしれない。が、それは甘いワナである。あんなに映像にしてつまらないものもない。映像化した作品、アニメでもドラマでもいいが、原作の魅力の再現なんて無理である。なぜならあれこそが文学の真髄だからだ。洗練されすぎていて設計図か何かと勘違いされてしまうのである。

ヒカルのいうIntegrityは、その逃げない姿勢のあらわれであるから、タイムマシンのような話を歌詞に取り入れる事はしない。その代わりに、彼女が好んで用いるのはご存知転生の主題である。昔書いたが、タイムマシンは論理的整合性の皆無から実在可能性を否定できるのだが、転生を論理的に排除するのはとても難しい。実際にあったとしても何ら論理的破綻が見いだされないのだ。

これは、僥倖である。タイムマシンと転生に込められた願いはよく似ている。いやほぼ同じといってもいいかもしれない。過去に戻りたいという願いは好奇心とともに"人生をやり直したい"という気持ちが反映されるし、未来に行きたいというのも好奇心と共に、今の自分の人生とは違う道を歩んでみたいという気持ちのあらわれである。

転生はそのどちらの願いも叶える。肉体はおろか記憶すら入れ替わってしまっていても。そして、Consistentであろうとし、Integrityを標榜する宇多田光にとって、タイムマシンに込められている普遍的な人々の願いを同じように、論理的破綻なく込められる転生の主題は格好なのである。

ただ、光の特異な所は、いったん最終的にGoodbye Happinessと愛のアンセムで、生まれ変わってもまたこの人生を歩みたいと宣言してしまった事だ。もしかしたらこれを機に、転生の主題は光の歌詞からなくなってしまうかもしれない。どうなるかはわからない。前世がチョコだったらしいひとに、いやくまにその点問い質してみたい所である。