無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

glocalization

よく"世界に打って出る"と海外進出を打ち出す例があるが、どうもそこに"旅行気分"が差し挟まれてる感じが否めない。当事者というより、こういう煽り文句を付加する記事を書いた人の意識が反映されている感じがする。

旅は、いつもは居ない場所を目指し通り過ぎ帰宅する事から成り立っている。そこにずっと居る訳ではないから旅人でありお客さんであり。だから行く先々で客人として扱われる。

が、商売でもスポーツでも何でもいいが、世界進出とか海外進出とかいう場合は、基本的にお引っ越し、或いは新たに居を構える事を意味する。日本という家を出ていっても、また違う国に家を作ってそこに"帰る"(帰属する)必要がある。旅人では最早居られないのだ。

そういう、各地域にローカライズ(局所化)された意識のもとに世界展開する事をグローバリゼーションとひっかけてグローカリゼーションという。つまり、日本というローカルから"外"に打って出てグローバルに展開しようとしても、そこには日本と異なるローカルな"人の住む国"があり、そこの特色に合わせていかないと生きていけないのだ。

有り体にいえば"世界"なんて市場は存在せず、多数のローカルが沢山ある事自体がグローバルなのである。どこに行こうが郷に入っては郷に従わなければならないのだ。

UtaDAについて周囲は海外進出だ世界展開だとメディアはずっと喧しかったが、私はずっと「アメリカは宇多田光にとってもうひとつの母国なのだからこれは海外デビューというより国内デビューなのだ」とずっと言ってきた。

今思えばこれは複数のローカルを抱えるグローカリゼーションの一環だと思えるのだが、光自身は更にもっとシンプルだった。

即ち、毎度言っているように、結局はこれは個人と個人の対話、あなたと私の間柄に過ぎない、という事だ。ローカル、といってもそれはどの範囲を指すか明確でない。国なのか県なのか市なのか町なのか村なのか区なのか家なのか部屋なのか。いやその単位は結局ひとりの人間ですよという極めて当たり前の、しかしすぐに我々が忘れてしまう事実を、光は見失わずにずっとやってきたのだ。

化学でいえばこれは原子還元論で、どんな複雑な物質も原子・分子の単位での振る舞いを把握できれば理解できるという世界観に近い。異なるのは、対象と観測者が同等だという事だ。原子をみるものもまた原子なのである。この感覚が化学とは違う所だ。

しかし、音楽と触れ合うという段階になると我々リスナーはついついその対等性を見失いがちになる…という話の続きはまた稿を改めまして。