無意識日記々

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答えはまだまだ、みつからない

最初にCOLORSを聴いた時、「あれ、このキーボードどこかで聴いた事があるな」と思った。歌メロも同じく、「あれ、ありがちなメロディーだな」と思った。そして、この異趣の2つを重ね合わせた事がこの曲のオリジナリティだと考えた。

あれから9年近くが経とうとしているが、未だに似たキーボードの曲に出会い直した事はないし、ありがちだと思った歌メロに似た歌に再会した事もない。COLORSのアイデアは、徹頭徹尾オリジナルだったのだ。

では最初、なぜ私はこの歌を、このフレーズを、このメロディーを聴いた事があると感じたのだろう。これは、この曲に限らない普遍的な問いである。

ティーヴ・ハリスが曲作りの際に最も気にしている事は、書いた曲が既存のアイデアを含んでいないかどうかだ。奥野記者がWhere The Wild Wind Blowsが素晴らしいと絶賛した際「どこかで聴いた事のあるメロディーだ」と一言付け加えたら「それはなんという曲だ」とハリス御大は食ってかかった。記者が「いや具体的にどの曲という事はない。(ケルト風のメロディーを聞いて)ただそう感じただけだ」と返すと御大はいたく安堵した。あんた大御所なんだからそんなに焦らなくてもいいのに、と。

ポール・マッカートニーはある朝起きたらあるメロディーを口遊んでいた。あまりにもスムーズにメロディーが出てくるので最初は既存の曲ではないかと疑った程だったのだが誰に聞かせてもそんな曲は知らないという。スクランブル・エッグを作るような手軽さで、かの名曲"Yesterday"は生まれたのだった。

あらゆる事が示唆的である。美し過ぎるメロディーは、あまりにもそれが自信に溢れ神々しい為か、なんだかずっとそこにあったような、昔から知っているような気がしてくるのである。奥野記者もマッカートニー卿も、曲のメロディーがあまりにも自然な為「既にこの曲はどこかに存在していて、私はそれを知っている」と思ってしまうのだ。そして、その元となる曲を仮に探し始めたとしても、いつまでも見つからないだろう。私がこの9年、COLORSに似た曲を見つけられなかったように。

何故我々は、初めて出会う曲を"知っている"と、"聴いた事がある"とすら思うのだろう。わからない。

ひとつ言えるのは、COLORSも、Where The Wild Wind Blowsも、Yesterdayも、メロディー自体がとても美しい事である。

こういう場合、逆から考えるのがセオリーだ。美しさとは、我々の心の奥深くにいつも眠っていて、際立った作品だけが、それを目覚めさせる事が出来る、美しいとはそういう事だ、と言い換えてしまおうか。

しっくり来ない。それが間違いだとも思わないが、説明の全部だとも思わない。

もう一歩踏み込もう。美しいとは、知っているという感覚の一部である、と。Feeling Of Knowingと美意識、美的感覚は同じもの、同じ源をもつものである、と。そう考える。

まだまだ、しっくり来ない。根拠がなさすぎる。昔、懐かしさを感じるメロディーは、実際にそのメロディーを知っているという訳ではなく、メロディー自体が「"懐かしい"という感覚」を表現しているのだ、と説いた事がある。メロディーが喜びや悲しさといった感情を表現するのと同じように、懐かしさという感情もまたメロディーで表現する事が出来るのだと。

恐らく、事態はこれに近い。しかし、懐かしいというどこか茫洋とした感覚と、"知っている"という確信に満ちた感覚の間には、まだまだ隔たりがある気がする。なんだか、道は遠い。


また考える事にしよう。10年や20年で、この問いに答えられるとは思えない。