無意識日記々

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巧妙且つ幸運だった抱き合せ販売

著作権の問題は難しい。未だに、法律の方がインターネットの存在を鑑みてない場合が多いのは如何ともし難いが、杓子定規の的外れさからどう脱却するかの意識の問題は、我々の方にも在る。

今のご時世、二次創作に待ったを掛けるのは非常に多くの場合誰の利益にもならない。ヒカルの素材を使ったMADやら歌ってみたやらネットには山のように転がっているが、それを規制しても宇多田ヒカルの事を思い出す人が減るだけで、売上も落ちるだろう。三方一両損どころの話ではなくなる。ニコニコ動画なんかは着うたへの誘導までしてくれている。いい宣伝の機会だと捉えるのが吉だろう。

光も、かなりのケースで二次創作を楽しんでいるようだ。人力ボーカロイドについては率先してコメントまでした。些かの不快感を表明する事も忘れずに。

私は当欄でオリジナリティオリジナルリティと連呼しているような気がするが、寧ろ日本人はモノマネや模倣に対する劣等感が無駄に邪魔な感じがする事が多い。要するに真面目なのだ。

オリジナルリティとは、何かを模倣している時に生まれる。真似している筈なのに、ソックリになる筈なのに何故か違うものが出来てしまう。それが個性でありオリジナルリティだ。しかし日本人は、そこでそれを単なるミスや失敗と見なし、失態と捉えて闇に葬り去る。そして見事に"正しく"模倣されたものだけが残る。斯くして、人の築き上げた技術を高度に洗練する術には長けた文化が出来上がる。総じて日本のミュージシャンというのは技術的には秀でているのだ。そしてオリジナルのディテールをオリジナルの人達以上に把握する。これはこれで才能である。

宇多田ヒカルの個性は、両方が合わさって出来ている。彼女の元々の歌唱、歌い方というのは米国のR&Bシーン(なんて書いてるけど私は詳しくない)に於いてはそう個性的という程でもない。どちらかというと90年代中期のオーソドックスなスタイルだ。なので、98年にヒカルがデビューした時に識者はそれらと照らし合わせて"本場で通用する日本人シンガーが現れた"と絶賛したのだ。要は"今まででいちばん(米国の)真似が上手い"という、如何にも日本人的な価値観に見事に応えたのである。

一方で、彼女のオリジナルリティは、そういった直輸入型の歌唱を以て日本語の歌を唄った事だ。勿論、今までにないスタイルだから、米国の歌唱スタイルでメロディーに載せる日本語は自動的に独創性を孕んでしまう。直接に参考になるスタイルはなかった筈だ。サザンやミスチルが日本語の新奇な乗せ方をそれぞれの世代に於いて標榜していたが、ヒカルはそういった流れとは無縁に、小学校の頃NYで聴いていた音楽のGrooveを日本で日本語でレコーディングしたに過ぎない。

もし、この日本語歌詞の乗せ方に、あの歌唱力が伴っていなかったらどうなっていたことか。恐らく、それはただの"間違い"として葬り去られていたのではないか。いわば、個性は強くないが技術は高い歌唱力が、新しく生まれた日本語Popsの可能性を摘み取る事なく保護し守り育ててくれたといえるのではないか。こういうプロセスでも経ないと、日本から何らかのオリジナルリティが登場して広まるなんて事は起こらない気がする。

二次創作の可能性も、何かこう、既存の(古い、或いは確立した)価値観と組み合わせて提示する事が出来れば、状況が打破できるかもしれない。ヒカルの成し遂げたようなハイレベルな組み合わせは無理でも、発想の取っ掛かりとしてヒカルの成功は幾ばくかの参考にはできるかもしれないよ。