無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

レシピを写す人作る人食べる人

日本の商業音楽市場には伝統的な構造上の特色がある。それは、欧米のスタイルを模倣出来るアイドルが主流派・本格派としてもてはやされ、オリジナリティのあるアーティストがサブカルチャーとして脇に追いやられる構図だ。

これは、料理に喩えるなら、既に完成されたレシピを早く正確に大量に再現できる、或いは、そのレシピを"和風"にアレンジして日本人の口に合うように提供出来る料理人が重宝され、食べた事もないような新奇なレシピを開発する料理研究者が陽の目をみない、とでもいえばいいか。(なお、料理は比喩として出しただけで日本の食文化が実際の所どうなっているか私は知らない)

もてはやされる、という表現を用いたが、そちらの方が世間的にウケがいい、とでも言えばいいか。つまり、次の世代で、商業音楽でビッグになってやろうと野心を抱く若者は、必然的にその高い模倣技術やアレンジ能力を目指すようになり、その構図は常に再生産されてゆく。現実として、食べた事のない珍味より、食べ慣れた味の方が世間のウケはそりゃあいい。かくして、どの世代においても海外からのアイデアの輸入に頼る構造は温存されてゆく。


宇多田ヒカルは、この構造において、そのメジャー的特性とマイナー的特性の両方を持ち合わせてデビューしてきた。その歌唱は「欧米歌手にひけをとらない」と絶賛され、「あの程度の歌手は欧米には幾らでも居る」と揶揄された。褒めるも貶すもまず海外との比較から、だった。こういう所からも市場の特色が伺えるが、一方で、作詞家・作曲家としての個性も際立っていた。

デビュー当初に取り上げられたのはその作詞能力程度だったが、作曲能力もその"量産体制ぶり"に感嘆の溜め息が漏れた。年間1位を初めてとったシングルは7枚目だった。ただデビューの時の瞬発力だけで売れていた訳ではない。

ただ、その作曲能力は、ある特定のスタイルに依拠しておらずそのままPopsとして提出されるものだから、オリジナルな音楽が出てくる事も織り込み済みの老舗レーベルですら扱いに戸惑った。「EXODUS」だ。結局、Hikaruの方がその事情を斟酌して「This Is The One」のコンセプトは"Mainstream Pop"になったが、その対応能力の高さが今後どちらに出るかはよくわからない。


もし仮に、あの頃から月日が経ち、音楽の購買層が変化しているのなら、もしかしたらHikaruにとってこの日本市場は、インディーズ的な活動をするべき場所なのかもしれない。ただ、音楽購買層が世代交代していないとすれば、今まで通りの、マスメディアを使ったメジャー・アーティストとして売り出していけばよい。

その購買層の変化の度合いを推し量るのに絶好の機会だったのがFL15だったのだが、結局累計の売上は僕の予想を大きく下回ったようだ。当初の数字の動き方から察するに、コア層の数は予想通りだったが、そこからのファースト・グレー・ゾーンが思いの外少なかったのが予想を外した原因である。それを購買層の世代変化や市場の特殊性だけで語るのは無理があるが、宇多田ヒカルという名前の扱いが現在この程度だという認識ではいようと思う。いい勉強になった。