無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

『畏敬の念をもって』ってSCv1の表紙詩の書き出し、『In owe,』の日本語訳だな。いや、それがどうという訳でもないのだけど。

しかし、あらゆる事に冷静な…いや、そうでもないか、"冷静になれる"光が、こと熊の事となると極端に盲目的だ。時々、というか単純に、リアルな熊の話題をする時は少々ついていけなくなる。そこまで行くと私も取っ掛かりがなくなるのだ。

Kuma Changに盲目的な愛情を注ぐのはいい。腹は綿だし3005gだ。この5gは喜びの5gなのか悲しみの5gなのか、想像するだけでゾクゾクするなぁ、なんて事を言える程度には共感できる。というか、私もぬいぐるみ好きなのでそこらへんに支障はない。

歌、『ぼくはくま』はもっとわかりやすい。みんなのうたに採用される事は紅白歌合戦出場を遥かに上回る価値がある―と常々思っていきてきたのでそれだけでも肯定できる。

他にもそのぼくはくまの絵本に出てきた線画のくまちゃんや、スーパークマンの愛らしさなんかも素晴らしい。絵が上手いってのも大きいんだけどね。

しかし、熊への愛情だけはよくわからない。色々と"わからない"理由がある気がするが、いちばんクリティカルだと思うのは光が生物全体としての"熊"の話しかせず、未だに誰か特定の熊に対する愛情や愛着を見せた事がない点だ。幾つかとりあげたニュースの中には個体名を含むものがあったかもしれないが、光がその誰かに特段の愛着を示したケースを私は思い出せない。

人類愛をうたう時、人は必ず特定の誰かを愛した経験から出発する。そこを切り離して考えてしまうと、衛宮切嗣のように300人を救う為に200人を犠牲にする、といった発想が出てくる。愛が壊れるのだ。人は数えられるものではない。私が誰かを強く愛するように、貴方にも愛する誰かが居るだろう、それをお互い尊重しよう、そう言って愛と尊敬が手を携えて人類愛が目指されるのだ。最初から「ヒト全体」に注視してうまくいく道理はないのである。

熊も人と何ら変わる所がない。一匹々々はそれぞれが個をもった別個の個体であり、誰も熊全体ではない。そんな概念みたいな存在はそれこそKuma Chang位だろう。愛はいつかどこかで生きている個体相手でないとまずは生まれ出さないものだ。光が一匹々々の生きる熊をみて、彼はこんな風に愛らしい、彼女はこんなに魅力的だ、という風に言ってきてくれて初めて、多分私は光が実際の生物の熊を貴ぶ精神が理解できそうに思っている。でも、それが由来のわからない古びたたった一枚の写真とかだったら物語が悲しくなるんだけどね。


あ、今朝の続きはまたいつか。(←何フラグか)