無意識日記々

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囲い込んで封じ込める

たまには私なりの考えを書いてみるか。いつも書いてるっちゃ書いてるけれど。

音楽などの芸術・芸能やスポーツといった類の所謂"趣味"に該当する分野、つまりライフラインの設備や医療食糧といった生活必需分野でない人の営み(線引きは難しいが)は、そうやってジャンルとして"囲われている"からこそ意義があると考える。サッカーを例にとるのがいちばんわかりやすい。何かを蹴飛ばしたり頭突きしたりする能力なんて一般社会では物騒極まりない暴力沙汰だ。それをサッカーという枠組みで、ボールを相手にする事によって個人技術の習熟やチームプレイの構築、果ては人間性の確立といった教育的効果まで期待される。また、そうやって出来上がったサッカーチームはフランチャイズというシステムによって地域や国を代表して他地域や他国と争うようになる。これも本当に実力行使で争う、即ち戦争行為に発展すれば物騒極まりないが、サッカーというスポーツの枠組みに収まっている限りにおいては闘争も平和装置の一部たり得る。ヒトという生物の闘争本能を平和装置に組み込む為の機構としてスポーツという分野は機
能している訳である。

音楽などの芸術芸能分野にも似たような事が当てはまる、と思う。暴力の代替装置としてのスポーツ、という考え方と対比するなら芸能芸術は宗教と神話の代替装置としての機能を持つ、と考える事が出来るのではないか。

歴史を紐解いてみると(つまり、私が実際に見た訳でもない話をしてみると)、宗教はかなりの割合で部族間闘争の原因たりえてきたようだ。つまり戦争の火種である。先のヒトの闘争本能とこの宗教的感情は、ヒト同士を戦争に駆り立てる事によってヒト自身、いや人間社会を発展させてきた面が大きい。しかし今やヒトの戦争志向は核兵器を生み出すまでに至っている。つまり勝者なきまるごと自爆エンドが現実味を帯びてきているのだ。

まぁそんな壮大な話は置いておいてもいい。文化が宗教的感情を昇華させる可能性の話だ。ライブコンサート会場に行くとその熱気は時として宗教的熱狂に近いものを喚起している。コンサートグッズを購入する行為を"お布施"というのも、信者的行為だと半ば自虐的に自覚した上での形容だろう。時に排他的になる事もある。しかしこの場では、政治権力闘争等は無縁であり、一応健全な経済活動として成り立っていて、なんとかそこで簡潔している。少なくともそこで政治団体が生まれ権力闘争に突入していくなんて事はない。

だから私は、文化に携わる人間が政治活動に関わる事について一抹の不安を覚える。その主張の如何に関わらず。せっかくコンサート会場に封じ込めている宗教的熱狂を外に解き放つ危険性を危惧するのだ。ヒカルが、だから、運動には参加しないとはっきり宣言してくれた事は安堵以外の何ものでもなかった。言いたい事は山ほどあるだろうに、よく踏みとどまってくれたものだ。とても、意義深い。