無意識日記々

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rebel

前回の話、わかりにくかったと思うのでもっとわかりにくくしてみよう。うしし。

扇情的に記述すれば、社会的に危なっかしい人材は芸術芸能やスポーツの世界に封じ込めろと言いたいのだ。特に魅力が秀でていて人を引っ張る力のある人が実際に宗教家や政治家になると大変な事になる。十中八九、悪い方へ変化する。後の一二は変化なしのケースだ。世の中がよくなる為には全世界人が(原理的には)共有出来る医術や技術の発達においてのみであり、それを政治と宣伝と経済が大間違いを繰り返しながら何とか取り入れていく過程を経て今日に至っている。そういった医術や技術を実際に開発した人々を含めヒトという生物は概ねそういった才能に恵まれていない。種の特性なのでまぁ半ば諦めるよろし。

またまたえらく壮大な話になったな。少しばかり話を小さくしてみよう。宇多田光氏が宗教家だったらどうするか。私は入信してしまうだろう。あの声で「お願い」って言われてみろ。断れないって。政治家だったらどうしよう。思いっ切り選挙活動に走り回ってしまうだろう。考えてもみろ、あのクリクリおめめで「おねg(ry

楽家でつくづくよかった、と噛み締める。好き嫌いで済むんだもん。曲やライブといった"作品"個々を自由な心で楽しんだりそうでもなかったりできるのは実に有り難い。これが教祖様や政治家先生だったら「彼らの言う事は絶対」なのである。「王様は裸だ」と言えない人生を選ぶ位なら俺は死ぬなぁ。光が歌い手作り手でよかった。何度でも言おう。お陰で私は生きられている。

しかし、その含意を探ると少し悲しい。光は、「人間活動」という名付けからもわかる通り、音楽家を極めたいという道は選んでいない。1人の人間としてバランスの取れた存在になりたいのである。「専門は昆虫に任せろ」とはよく言ったもので、人間は歌も歌えば信心もし、政(まつりごと)にも携わる。数多雑多こそ本質だ。だから、宇多田光にだって政治的偏向はあるだろうし、宗教心だってあるだろう。そういったよしなしごとを、光は全部くまちゃんに託してしまった。彼女の信仰といえば熊崇拝、彼女の政党といえば「くまちゃんの肌触りは世界一」である。これが何かの冗談だと思ったらそれこそ大間違いである。こんなに本気な発言はない。そしてこれが音楽家としてバランスをとった結論なのである。自動的に出た、という感じではあったが。






追伸 ::::: 自然に対しての人の歪んだ営みを現実の中で紡ぐのが政治と宗教ならば、その歪みを自然に対し経緯を表して包み込んで奥床しむのが文化だ。さすればあらゆる文化は数学と文学の間にあるであろうが、数学的美と文学的慟哭を兼ね備える「歌」とは、唯一母なる自然に対抗し得る人の歪んだ営みかもしれない。どこまで正面切って反抗できるか。私自身も楽しみである。