無意識日記々

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自殺について

自殺についての話題が盛り上がっているようだけれど、報道規制協定とかないの? 加熱報道が原因で誰かが自殺しても、報道側はそう報じないと思うんだけど。同じ穴の狢対決。皮肉。

本当に死にたがってる人に「生きろ」とか「死ぬな」なんて言っても意味がない。彼は、彼女はもう生きていたくなんかないのだから。何故死なずに生きているのかといえば生きていたいからではなく死ぬのが怖かったり勇気がなかったりするだけだ。生きたいんじゃなくて死ねてないだけなんだよ。いや、そんな人に会った事ないからこちらもお話で書いてるんだけどね。

希望を持て、というのがそもそも間違い。お前は100m9秒で走れと言われたら走れるのか。希望を持つというのはそもそもからして生きたがっている人間の芸当なのだ。「死ねてない」だけの人間からすれば、スーパーマンも同然である。パンがなければケーキを食べればいいじゃない。ごもっともだが、どうすればいいのか。

彼らに必要なのは生きろとか希望を持てとかいう無茶ぶり命令系メッセージではない。生きていればこんないい事が"実際に"あるよという体験そのものである。そんなことわかってるよと誰しも言うだろうが、実際に自殺を考えている人の手を取って今在る環境からEXODUSさせ何らかの"生きていたくなる"ような経験をさせたい、と思って、うん、思うだけでもいいや、そういう人はどれ位居るだろうか。死にたがっている人の今の気持ちをいきなり否定しにかかっている風ばかりにみえるのは私の根性がひねくれているせいなのかな。いやそうかもしれん。(真顔)

生物は生きたがるとは限らない。自然淘汰は奥深い。もしかしたら、種の存続にとって害のある個体は自死するような機構がどこかに存在するかもしれない。わからない。しかし一方で、自殺という枠組みが生物にとって不自然に映るというのも同然ある。統計をどこまで信用すべきかはわからないが、確かにデータ上では8歳以下のこどもは殆ど自殺しないのである。従って、自殺とは生物学的な特性ではなくヒトの文化の歪みが生み出しただけのガラス細工、いやガラス不細工であるとも考えられる。

その論に立てば、本当に心の底から死にたがっている人なんて居ない、という"事実"が存在する事も論理的には有り得るだろう。であるならば、その感情を喚起する方法論を探るべきだ。文化の不細工に対しては文化の小細工も小賢しながら効き目があるかもしれない。その点に関しては、実際に生きたがっていて生きている我々の方が希望を捨てちゃあいけない。100mを9秒で走り抜ける事はできなくても歩いたり這ったりおぶってもらったりして100m移動する事はできるだろう。希望を、持とう。

今「実際に生きたがっていて生きている我々」と断言して貴方方を巻き込んでしまったが、少なくともここの継続読者は皆、生きたくて生きているものと思われる。ヒカルの、新しいメッセージやツイートや、何より新しい写真や映像や、新曲が出るのを心待ちにしているだろう。多少の強弱はあれど、それは「生きたくて生きている」と言っていいのではない。たかが歌手を取り巻く環境の話でしかないが、確かにあの歌声を耳にする事は生きる事に繋がる。

だから、万が一自殺が頭をよぎっている人が居るならば、私からのメッセージはひとつしかない。ヒカルの歌声を聴いてみて欲しい。私の実感からして、あの歌より、あの人より「生きていたい」と思わせる存在はない。まぁ、貴方に「あう」かどうかは、神のみぞ知る、ですが…