無意識日記々

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#風立ちぬ レビューその2

風立ちぬ。映画を見始めてすぐに気が付いた。そして後悔した。「自分は30年近く、どうしてこんなシンプルな事に気が付かなかったのだろう。」と。

宮崎駿が飛行機好き、もっといえば「空を飛ぶこと」が大好きなのは有名な話、というか国民的合意事項であろう。「紅の豚」まで空を飛びまくっていたのに「もののけ姫」で空を飛ばなかった(その代わり皆"跳んで"はいたが)事が話題として大きく取り上げられる程だ。その事について私は今まで「そういう人なのだなぁ。」という感想以上のものは持っていなかったのである。


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ここの読者なら幾らか御存知のように、ここの筆者(私)は、「魔法少女まどか☆マギカ」を観て以来「今の日本のアニメ業界は凄い!」と確信し、出来るだけ多くのアニメ作品を観るように努めてきた。そして、そんな中で、京アニやらI.G.やらA-1やらUfotableやら何やらかんやらと、沢山の優れた制作会社の作品をチェックしてきた。そこでの期待は一貫してこうだった。「スタジオ・ジブリを、宮崎駿高畑勲を超える作品を!」

しかし、風立ちぬを見始めてほんの数分で、その期待がまだまだ夢にしか過ぎない事を思い知らされた。圧倒的。ことアニメーションに関しては、やはり宮崎駿は稀代の、不世出の大天才であった。

何が違うか。この作品がどこか原点回帰というか、監督の好き勝手度がいつもより強いからか、いや冷静に考えればこれまでの40年間ずっとそうだったのかもしれないが、私がイの一番に強烈に感じたのは銀幕から溢れ出る「絵が動く!凄い!!嬉しい!!!」という原初的感情だったのだ。

宮崎駿監督は今年で72歳かそこらだったと思うが、その年齢にしてここまでプリミティヴな驚きと喜びを湛えたまま未だアニメーション映画を造り続けているのだ。それは大きな感動であった。そして、その原初的感動は2時間余りのこの映画を終始貫いていて絶える事がなかった。

「絵」というものはまず、人の想像力の"自由"の象徴である。落書きをした事がある人は誰でも、その"自由"、その描いた中で好きにしていい、という快感を、うっすらとでも味わったことがあるはずだ。しかし、それと引き換えにその世界は紙の上、"2次元"の中に限定される運命にあった。3次元ではうまくいかないことでも、紙の上、2次元でなら自由に何でも出来るのだ。それが"絵"の魅力だった。幼い頃の宮崎駿も、そう思っていたのではないか。

革命。アニメーションでは、その"絵"が動いたのだ。何という不思議。何という感動。この驚きを、生まれた頃からアニメに囲まれて育った世代が共有出来るかはわからない。しかし、ある一定以上の世代にとってはまさに異次元の喜びだったに違いない。絵が動く! 自由の次元が広がったのだ。"絵"という2次元の自由に、"動き"、即ち時間という次元が加わった。表現活動が新しい次元へと飛躍したのだ。


どうして今まで気が付かなかったのだろう。この、「アニメーションに対する原初的感動」は、今まで空を飛べなかった人間が空を飛べるようになった時の感動と全く同じではないか。人間は、自らの足で自由に動き回れる。しかし悲しいかな、重力という枷の所為で地面という2次元の上での自由でしかなかった。それが、"空を飛ぶ"という事を実現させる事で、人間の自由が2次元から3次元へと広がったのだ。人が新しい次元へと踏み出すその感動。歓喜。驚嘆。それはまさに、「絵が動いた!」と叫んだ時の感動と同質に違いない。

即ち、宮崎駿の中では「絵が動く!」というアニメーションの感動と「空を飛んだ!」という飛行機の感動が分かち難く結び付いている―というかほぼ同じものなのだ。その事に気が付けば、何故彼がアニメーションで空を飛ぶ場面を幾度となく描きたいかがみえてくる。当然の事だったのだ彼にしてみれば。自分の好きな事を両方いっぺんに盛り込んだその躍動感と生命力。それを実現したスタジオ・ジブリの技術力も素晴らしいが、何よりその原初の感動を未だに持ち続け表現活動にぶちこんでくり彼の"嬉しそうな感じ"が画面いっぱいから溢れ出てくる、いや、飛び出てくる。それこそがこの「風立ちぬ」というアニメーション映画最大の魅力である。原点回帰。これから映画館に行く人は、是非この点に集中して映画を観て欲しいものである。


…それにしても、どうして今まで気が付かなかったのだろう…(ぶつぶつ)…。