無意識日記々

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強さ

特にこだわりもなかったのでヒカルが助手席に乗っている映像を見てみた。当初は、ヒカルも別に悲しい顔見て欲しい訳じゃないだろうと思って見なかったのだが、助手席にわざわざ座った、というのでじゃあそれは撮影される事を覚悟の上だったのかと思い直した次第。

Youtubeにあった40秒ほどの動画。あんまりにも切ないので見たファンが罪悪感に駆られるという話だったのだが、ふむ、私が見た分に関してはしっかりと堪えきっていて見上げたものである。確かに、ここまでコントロールできなくては人前に出られないだろう。

悲しみは全く癒えていない。それどころかこれから時と共に増していくかもしれない。母が偉大であったのなら有り得る。たとえ普段全く行き来がなかったとしても、その存在感は、重い。

ヒカルは沈黙の5日間で、しっかりと理性を整えてきた。沈黙の間、一体どんな表情をしていたのか私は怖くて想像が出来ない。しかし、ちゃんと人前に出れる所まで持ってきた。悲しみが癒えたからではない。ただ、暴れ馬の乗り方を覚えただけだ。暴れ馬の方の体力は尽きる事を知らず、大人しくなる気配はまるでない。

個々がどういう捉え方をして罪悪感に苛まれたかはわからない。ただこちらから言える事は、あれは余所行きの顔だから、存分に見てあげて下さい、という事だ。見せる為の顔なのだから、ヒカルに気兼ねなく、見たいだけ、どうぞ。彼女はそのつもりだろうから。

「あれのどこが余所行きなんだ!」と憤る向きもあるかもしれない。ヒカルに慣れているファンは、あそこからヒカルの悲しみを読み取れてしまう。しかし、今はそのレベルの話はしていない。大多数の人たちは、あの顔を見て、「沈痛な、落ち込んだ表情」と見て取るだろう。それでいいのである。その為の顔なのだから。

しかし、実際はあの顔は戦いの真っ最中の顔だ。悲しみに圧し潰されぬよう堪え抗い耐え操る戦士の表情である。理性を発達させる人間とは基本的に感情過多である。理論武装とよく言うが、大きすぎる感情の振幅を理性の鎧に押し込めて操る事が、まともな生活を送る上で欠かせない。だから間違いなく、理屈っぽい奴は怒りっぽい。すぐに冷静さを失ってしまうから理屈を並べて平静さを保つのだ。

宇多田ヒカルの感情の振幅は途轍もなく激しい。ヒカルの理性は日本人女性の中では間違いなくトップクラスだと思われるが、その感情の暴れ馬っぷりは凄まじく、時折振り落とされ暴走を許す事もあるだろう。それを音楽という表現手段で対象化し対称化し何とか社会的な状態にもっていくのだ。99年の狂騒は、即ち、一億人を巻き込んでの宇多田ヒカルの感情表現の一環だったと思っている。それ位のスケールの助けを借りなければ表現仕切れない、それだけの強い感情が、彼女の理性を育ててきた。いや、育んでこざるを得なかったのだ。

その彼女が今、今まででもトップクラスの感情の振幅と対峙している。感情そのものを減らすなんて事はまだ出来ない。宥め賺しして何とか制御しているに過ぎない。まだその感情と心を同化させ消化し昇華させるまではいかない。それはこれから何年、何十年、もしかしたら死ぬまでかかる。死んでも解決しないかもしれない。

しかし、あの5日後に開かれたメッセージと助手席での沈痛な面もちは、果てしなく気丈である。確かに危うい。危なっかしい。暴れ馬はラオウの国王号並みの、いやラオウ並みの強敵である。しかし彼女はしっかりとそれと戦い、食い止めている。その意味において私は安心した。彼女は生きる気満々なのだ。少しでも気を抜けば感情の奔流に押し流され踏み潰されるだろう。そうなっては精神の崩壊だが、今の彼女はファイティング・スピリッツに満ち溢れている。この悲しみを乗りこなす。それを支えているのは間違いなく純子さんへの愛である。彼女を喪った悲しみを、彼女を喪った悲しみでより強くなった彼女への愛で迎え撃つ。まるで天使と悪魔、神と魔王との争いだが、鍵を握るのは真面目な話、表現力だ。何をすればこの感情を"表現しきって"昇華する事が出来るか。勝負である。長い長い戦いは、まだまだこれからも続いていくのだ。一見沈痛で悲しみに落ち込んでいるあの助手席での表情に、私はこうキャプションをつける。『負けちゃいけない。』