無意識日記々

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「宇多田、アウトー」

で、昨日その「2013年HR/HMで印象に残った曲」をYoutubeのリンクで呟きながら思ったのだ。「これってラジオやな」と。

あれは私も曲を聴きながらかけた。というか、曲を聴くついでに呟いていた。私のコメントはツイートなので勿論字だが、読み上げソフトを使って音声化し、続いてYoutubeのリンクを踏めば、DJが曲紹介して曲が掛かる、というラジオ番組の流れが出来上がる。Youtubeのリンクはどれもオフィシャルなものだし、例えばもう一歩踏み込んで読み上げ音声をYoutubeにUPLOADしてそのオフィシャルリンクに挟み込んでプレイリストを制作すれば、本当に疑似ラジオになるだろう。いやはや、凄い時代になったものだ。

私がここで言いたいことは簡単である。「クォリティーを無視すれば、一時間のラジオ番組なんてすぐ作れる。」

さて、Hikaruは今後どうすべきだろうか。体調不良になったら、番組を休むべき? ここで立ち止まって考えてみよう。本来なら、仕事に何度も穴を空けていけばおろされる。クビである。しかし、体調不良なんだし、何より、Hikaruは請われて受けた仕事だ。そこは何というか、許される。

でもHikaruはそうは思っていない。今のように「許される」と開き直れる性格ならよかったんだけども。今も申し訳無くしょぼんとしているに違いない。笑っていいともで3年越しにタモリに謝った人である。そんな昔の事はもういいよ。

それだけなら、まだ、なんだな。ここに足し算して「凝り性のクォリティー厨」という性格もあるから、話がややこしくなる。「やるからにはクォリティーの高いものを」と頑張ってしまうのだ。そこで力み過ぎて、放送に穴を空けてしまう。

幾つか私も案を出してきたが、予め不測の事態に備えて一時間分の編集音源を作っておけばいいのに、クォリティー厨はこう考える。「そんな余力があるんなら、番組制作に注ぎ込む」と。だから、Hikaruの場合楽曲制作がその最たるものだが、没がない。いや、あるにはあるよ。Celebrateの身代わりになったバラードとかね。しかし、基本的には、今やってる事を最高のものにするまで妥協しない、という態度で来ていて、今までの熊泡七回からしても、やる毎にクォリティーが上がっていて凝っている。それ自体は素晴らしい。

問題はそこなのだ。楽曲制作にその態度を貫くのはいい。しかし、ラジオ番組制作もそれでいいのかと。もっと肩の力抜けばいいんじゃないのかと。一度スコッチを飲みながら番組を収録していたけれど、あれも多分「飲まないとどうしても余計な事を考えてどうすればいいかわからなくなるから」みたいな真面目な理由なのだ。赤塚不二夫か君は。真面目も度が過ぎると中毒になるんだぞ。

そうか、もうひとつ足すべき性格があった。「ギリギリアウト」だ。彼女は、境界線とか限界を追求したがるたちなのだが、しばしばそのラインを超えてしまうのだ。Passionの話が未だに印象的だが、Popsの枠のギリギリを狙って、その内側に留まろうとはせずその外に出てしまう。「宇多田、アウトー」である。年末かよ。

その性格も、災いしているかもしれない。「ほどほどに頑張って、これくらいでいいか」が全然出来ない。だから、番組が出来てそれが頗る楽しいか、番組休止かの2択に収束してしまう。ほどほどを保ってコンスタントに、というのが出来ない。それがお陰であの最高の作曲能力が担保されているのだから、痛し痒し。この問題は、そうそう簡単に解決出来るもんじゃないな。