無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

不安が案外ファンの証し

昨夜のエントリーを「案外重要」と書いたのは、それがblogの雰囲気を左右するからだ。

先日も@mikihhiにアニメの感想を呟いたら「視聴者側がハードル上げすぎ」と窘められた。ここらへんの匙加減の話だ。適用基準によって、読者がこの日記を好きか嫌いかまで変えるようになるだろう。

ハードルを上げ過ぎれば。辛辣な言葉に恨み節、「あの頃はよかった」という過去との比較、「あの人はこんなに上手く出来るのに」という他者との比較、「そんな事であんな事が言えると思ってんの!?」という理想からの乖離、等々、ひたすらネガティヴな言い方に溢れる。果たしてそんなblog誰が読みたいか。俺は読みたくない。

かといって絶賛ばかりを書くんだったら、歌なんか聴かなくても書けるし。適当な美辞麗句を並べ立てればよい。ファンブログなんだからそういうのもアリかとは思うが、私はHikaruの歌を聴いた上で感想を書きたいので、つまり、事前には何を書く事になるかわからない、総ては彼女の歌次第、という不確定性の中で書きたいので、絶賛だらけは基本的には有り得ない。それでも絶賛ばかりにみえるとしたらそれはHikaruがそれだけ頑張った証で…ってこの話書くの何度目だよ。

難しいのは、評価のハードルというものは、自分が気付かないうちに勝手に上がったり下がったりするものでありつつ、一方で、ある程度は自分で調整する事が出来る、という点だ。歌を聴いて感じる感情は最初は言葉で表現出来ていないものだから、それを言語化する過程が必ずそこにあり、従って、言語化の流儀の設定如何で同じ事を感じたとしてもそれの言葉への書き下し方はまるで違うもの、時には正反対(例えば、肯定と否定)になる可能性があり、それがココの雰囲気を形作る。これが、「案外重要」の真意である。要するに書き方の問題に過ぎない(どうせHikaruの歌の感想で私は嘘なんか吐きそうにない)のだが、読者として文章を読んだ時の感想は激しく異なってくるのだ。


なので、アニー・ハズラムを聴いたらライブで完璧に歌えていたのでHikaruのライブでの歌唱も完璧さ度合いがどれくらいあるか、という切り取り方の設定をしてからライブの感想を書くようにしようかな、という話はかなり危険なのだ。一言でいえば不適切なバイアスだ。

そこで昨夜放り出した問題に立ち返る。Hikaruのライブでの歌唱に、どれだけ「不安定」を望むかという話だ。普通は安定していればしている程いい。ライブならではの歌い方の変更や、即興でのフェイクなども、事前には予想がつかないかもしれないが実際耳にしたら何の不安ももたらさなかった、という意味で「安定」しているのが望ましい。この点に異論はないと思う。

が、Hikaruファンの性癖はちょっと特殊である。不安エンターテインメントらしく、皆Hikaruの歌を"不安げに見守りたがって"いたりするのだ。「あぁ〜、ヒカルちゃん今日は大丈夫かな〜」と心配する事自体が宇多田ヒカルのコンサートの"楽しみ方"になっている。何とも可笑しな話にみえるが、ファンの(特に女子の)メイン層はその多くが「私だけのヒカルちゃん」を胸に抱いている。それは、あらゆる「それ以外」に対する不信や恐怖や不安の裏返しになっている。でなければ「私だけの」と"字面にすれば排他的"な文言を挿入する必要はない。その不安に浴する事で、宇多田ヒカルへの恋心は完成する。だから彼女が出てきただけで嬉しいのだ。悪いか。


…となると。私の方が完璧とか安心とか安定とかを評価の基準にしてしまうと、そういった空気からかなり乖離したものが出来上がる。それは…何と言えばいいかな、珍しく、そこで私は"自分以外のファン"の目線を意識しているのかもしれない。何れにせよ、結局「案外重要」な事には、かわりがないんだけど。