無意識日記々

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その布が破れたら

エディ・ヴァン・ヘイレン訃報のインパクトは案の定凄まじかったらしく、ここまで沢山のミュージシャンから哀悼コメントが相次いでいるのは余り記憶にない。ラウドネス高崎晃なんか心痛のあまり雑誌インタビューをキャンセルしていたが、それへの反応も「それは仕方ない」という空気だった。80年代にギターを弾いていた人間からすりゃ神様が逝ったようなもので「神様って死ぬんだっけ?」とショックを受けるのも止むを得ないのだ。

ただ、今回は超有名人ということで周囲の理解を得られたものの、個々の心痛というのは本来なかなか受け入れられないものだ。昨今なら例えばペットが罹患したから会社を休むと言って通用するかどうかといったらかなり対応が別れるだろう。過渡期というヤツですね。時代や地域など様々なファクターによってそれは別れる。何故こうなるかといえば、そもそも他者の心痛を知る人間が殆ど存在しないからだ。「常識としてこういう場合に人は悲しむ」という外から与えられた知識に依って皆行動しているに過ぎない。従って知識にない行動には反応ができない。本来なら、対象が何であれそもそもその人の心痛が如何ばかりかを慮る事自体が重要であって、それが皆と同じとは限らない。

一昔前までなら「そんな一人々々細かい事情まではわからない」と言って突っぱねてしまえばよかったが、今はインターネットが普及した時代だ。その人個人の情報が簡単に手に入る。それに基づいて判断する事はそこまで難易度が高い話ではない。その段階をすっとばして「セケンのジョーシキ」で価値判断するのはもう20世紀に置いてきていいだろう。

とはいえ、まだまだ旧世紀の習慣が抜け切らない世代にはそれが難しいかもしれない。未だに同性愛の結婚に反対する人が居るらしい。彼女ら彼らの思いや生活ぶりなんて手元のスマホでたちまち検索できるのにそれをしないのだろうかな。今を生きてる人間が不便や苦痛を訴えている姿が見えていないのだろうか。

という話に共感してくれる人も、しかし、ヒカルのKuma Changに対する感情を果たして理解してくれるだろうかと言われると私も含めて結構心許ない。例えば「くまちゃんの背中が破れてしまったので今夜のコンサートはキャンセルします」と言われて納得できるかというと果たしてわからない。生身の細胞と違って布と綿なのにそこまでの緊急性はあるのかと言われたら返す言葉もない。しかし、今までの溺愛ぶりからして、「あぁ、それは一刻も早く治さないといけないね」と同意したい気持ちもこちらにはある。実際、傷ついたくまちゃんを置いて舞台に立つとか、なんかヒカルらしくないなと思ってしまう。まぁ現実的には、コンサート開始時刻を30分ほど遅らせて応急処置手当だけしてひとまず公演を完遂する、あたりが妥当な妥協案かな。気もそぞろで歌えるかどうかもわからないが。

普通の常識なら「そんな布と綿で」となるかもしれない。しかし、個々の心痛というのは本当にわからないものなのだ。そこに心痛があると知っていれば、黒人も奴隷にされなかっただろうし、同性愛者の皆さんもとっくに結婚生活をエンジョイ出来ていただろう。特に若い人たちはピンと来ないかもしれないが、昔は黒人は家畜と同じ扱いだったようだし、同性愛者は病人且つ犯罪者として扱われていた。なぜそんな不合理なと思われそうだが、合理的なのは自然と宇宙の方であって人間はとことん不合理なのだ。自然と宇宙から学んで変えていくしかない。くまちゃんをただの布と綿扱いする前に、今までヒカルが発信してきた彼に対する愛情の深さをまず検索して知るところから、だ。くまちゃんがぺちゃんこになった夢をみて泣いて起きてきた話を読んだりしたら彼の傷でコンサートをキャンセルされても納得してしまうようになる。結局は、個々の検索能力を磨いて日々よく知るしかないのです。地道に行きまっしょ。