無意識日記々

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何の予感もはたらかない。私。

歌詞の話やメッセ開通など、どれも16年前の話かと思うと…いや、別に何もないな。随分昔なのは間違いないが、それが歴史というものだ。変な話、3年前も16年前も大して変わらないようにみえる。歳とったんだろうか俺。

実際、なんかこの20年くらいって妙に"止まって"いる感じが拭えない。インターネットが急速に発達し、今やもう携帯電話やスマートフォンがなかった時代どうやって生きていたかさえわからない。若い子たちにとっては蛇口を捻ると水が出るのと同じ感覚でタップして情報を得ていて、それが極々普通の事なのだ。隔世の感がある…筈なんだか、なんなんだろうこの感覚。

ひとつには、自分の聴いてる音楽にあまり革命的なものが出てきていないからではないか、というのがあるのではないかと考える。個人的な視点である。1995年にIN FLAMESがデビューして以来、彼らよりドラスティックな新しいメタルは生まれたか? The Flower Kingsより活動的なプログレッシブ・ロックは生まれたか? なんだか、あまり変わっていない気がする。それはなんというか、自分の望んでいた事でもあるのだろう。Arch Enemyデスメタルを捨てずにきて来年で20年。彼らに望んでいた事が、貫き続けられてる。この分だとゆかちんが50歳になっても七森中☆ごらく部が元気に活動してるなんてきっと既定路線なんじゃないか、と夢想してしまう。それはさておき。

なんだか、儚さが消えている。自分の趣味のせいだろうか? 彼らは20年30年追い掛ける価値があるとみたアーティストたちが、残念ながら総てではないにせよ、実際に四半世紀を駆け抜けている。つまり私は、20年30年前に見た景色を今も見ているに過ぎない。確かに、"ずっと止まって"いるのかもしれない。


宇多田ヒカルはそれらと全く相容れない。今32歳だって? ヒカルが16歳の頃、倍の年齢なんて想像もしていなかったし、まず何より引退してるか否かもわからなかったのだ。ここである。「ずっと歌っているだろう」とも「きっと引退しているだろう」ともどちらも思えないのだ。いわば、全く"予感"がないのである。"期待"は幾らでもある。100歳になっても歌っていて欲しい。言うはタダだが、確かなものは何もない。一体これは何なのだろう。

そんなだから、ヒカルが16歳の時も32歳の時も「ああ、そう」としか思えない。時間が経っているかとか、そういうのが無いのだから。多少化粧のノリが悪くなったかな?とか言われても俺きっと気付けないし。


時間を何とか感じられるのは、ライブだろうな。どの時代の曲もひたすら歌われ、その2時間の厚みが歴史の厚みになる。ベテランアーティストのコンサートなんて、毎回仮面ライダー全員集合編やってるようなものだ。ヒット曲が沢山あればあるほど厚みは増す。ヒカルなんか無敵である。


ライブという"今"を感じて初めて時間の厚みを感じる。普段の私は、年月を数字としかみていない。なんなのか、自分で言っててよくわからない。ただそれはあるし、ただあったのだ。歌の繋ぐいろいろな時間。相変わらずヒカルはいつ戻ってきてくれるか、戻ってきてくれたとして、次は何年やってくれるのか。何の予感もはたらかない。ただし、ライブはいつだって素晴らしい。また時間を感じたい。今という瞬間の覗き穴から。