無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

曖昧を除いたら複雑が増した(汗)

前回の記述では論点が曖昧なのでもう一度整理してみよう。この話題は、各々の価値観によって出発点も結論も大分変わると思うが。

プロフェッショナルの仕事に限れば、先に映像があってそれに音楽なり音声なりをつけた場合価値が上がる。私はそう思う。一方、音楽が先にあってそれに映像をつける場合は必ずしもこの限りではなく、ミュージック・ビデオの中には「見なきゃよかった」と思うものも少なくない。かなりのケースで「それだったら演奏風景そのままつけてくれよ」と思う。大体が余計なのである。

これは、MV監督が無能だからではない。本質的に、映像に音楽をつけるより音楽に映像をつける方が難しいのだ。

音楽は単独で感情を表現できる。一方、映像(取り敢えず静止画については考えない事にしよう、動画だ)には、何らかの意味付けが必要だ。

例えばホラー映画の怖い場面に怖い音楽をつければ恐怖感は倍増するが、コミカルな音楽をつければ途端にギャグになる。音楽とはそれ程までに人の感情に対して支配的だ。一方、コミカルな音楽が先にあって、そこにコミカルな光景をあてればよりコミカルになるかというとそうでもなく、"落ち着きがいい"というだけである。更にそこにホラーな場面を合わせにかかると、やはりコミカルなままか、或いはシーンが残虐過ぎれば"落ち着きが悪い"と思ってしまう。ここらへんの順序による機微は難しいが、要するに映像は意味付けを必要とするので音楽やナレーションや台詞回しによってその意味を随分と変えられる為、いろんな音楽の付け方が有り得るのだが、音楽が先にあった場合音楽の印象はもうそれ自体で成立している為、"本当にそれに合った映像"をつけないと余計なだけになるのだ。


実際、音声をオフにしてミュージックビデオを見てみよう。余程の名作でない限り、何が言いたいか全くわからない。いや、演奏風景が見れるものは別だが。ミュージックビデオの映像とは、それ単体では成立しない上に、音楽に物凄く合わせづらい代物なのだ。

殆どの視聴者はそこまで考えていない。「MTVで見掛けたあのエロいねーちゃんが映ってる時に流れてた曲だ」みたいな感じで歌が人々の間に浸透し、それが80年代成功したのだ。日本で成功しなかったのは、勿論そういう番組や放送局がなかったからだが、それと供に、日本語の歌というのがメッセージ性が強すぎるのも大きい。

歌において言葉の占める割合が多い為、歌手のパーソナリティが大きく重視される。ここからは私の価値観ではなく一般的な話だが、テレビで人が歌っている姿を見る&器楽演奏風景が殆ど映らない、という組み合わせは、歌をバックグラウンドにしてエロいねーちゃんを見せるMTVに対して、器楽演奏をバックグラウンドにして歌で言葉を伝える人が画面の真ん中に居るという(米国でもずっと伝統的だっただろう)歌に対する日本人の認識構造を決定づけてそのまま変わらなかった事を意味するのではないか。つまりその為にミュージックビデオ文化が定着しなかった可能性がある、という説だ。

まぁそれはひとつの仮説としておくとしても、私の趣味も含めて、「果たして日本語の歌にそんなにミュージックビデオは必要か?」という問いは立てる事が出来ると思う。特に、アイドル文化とアニソン文化とYoutubeが主役になりつつあるこの国で音楽の動画の在り方をどう考えるかは重要だろう。

何だか話が大きく迂回してしまったが、まぁいいや。取り敢えずここまでは「問題意識の提示」という事で、次回に続く……、気がします。