無意識日記々

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言葉時雨(コトノハシクレ)

言葉は時間と共に変化する。その中で、詩はその変化する言葉によらない美しさをもって生き長らえる。歌詞にそれは可能だろうか。

歌詞は複雑な存在である。詩は抽象的であればよい。言葉は人と共に移ろえばよい。歌詞はそのどちらでも居られない。そのもどかしさが、ハードコアやヒップホップにおいては"歌詞の喪失"に繋がった。グロウルやラップにおける言葉の力強さは特筆的だが、それを歌詞と呼ぶのはやや憚られる。

見る側を変えれば、人としてのもどかしさがメロディーを生むとも言える。そうして出来るのが歌であるなら、歌声に祈りを帯びるのは当然の帰結でしかない。祈りと願い、その必死さは言葉が生まれ変わったとしてもなお持ち続けるであろう原動力だ。英語ではそのままmotifと言う。日本語でいえば動機、主題である。

流転する万物の中で一旦引き裂かれれば、残るのは嘲笑か慟哭か。他者に向かうか内面に向かうかの違いしかない。


桜流しが震災の翌年に発表されたという歴史は変わらない。映画の名場面から台詞を拝借した事実も変わらない。どちらも時と共に色褪せたりくすんだり、新しい人によって鮮やかに蘇ったりするだろう。或いはもっとスケール大きく、日本語の失われた世界で、古語による歌唱だと究められている事だろう。

詩としての美しさが揺らめいている。思い出と実感に満ちた、手垢のついた言葉に彩られている。英語も混じっている。それでも寄せているのだ。永遠に辿り着けない、詩の美しさに、引き裂かれた慟哭に、いっぺん気持ちがにじり寄っていくのだ。その道とこの道をいっぺんに歩いて、いや這っていく事はまるで出来ないように思えるかもしれないが、歌ならできる。でも、だから、辿り着けない。祈りは祈りのままなのだ。生きる事の本質は歌にある。だから歌の為に生きなければいけない。


そんな重い事でもない。無事に生きられた一日の終わりに、そっと一と節し口遊むだけでいい。鼻歌混じりの御機嫌真っ直ぐ。風呂上がりでもお布団に飛び込んだ瞬間でも洗濯物を畳む時でもいい。確かに、そういう時に桜流しかというと今一歩足りないかもしれない。まだ進化できる。やれる事はまだまだあるのだ。