無意識日記々

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伝えるからバラまいて伝わるへ

表現の自由は常に尊重されるべきではあっても、伝達に関してはまた別の話だ。表す事と伝える事ははっきりと自覚的に分けて考えねばなるまい。

だがインターネット普及以降、特にこの点は曖昧である。アップロードボタンひとつで表した事を誰かに伝えてしまう羽目になる。中には、それがアップロードボタンだとよく理解していないまま押してしまう人も居る。いや、今やそちらが大半か。

表現に他者を巻き込む時そこに必ず軋轢のリスクはある。寧ろ無いのならば表現なんて必要ない。伝えなくてもお互い知っている・わかっているのだから。知らない・わからない人に対してだから伝える意義はあるしだからこそ伝わるかどうかはわからない。

例えば言葉であっても、自らの日記に書き記す事と手紙を書いて相手に読ませるのではグッと意味合いが違ってくる。相手を傷つけたりイラつかせたり怒らせたり悲しませたりするリスクは常にある。だから法律には名誉毀損罪とか侮辱罪とかがある。

だが、近代には「放送」とか「出版」といった特殊なケースが随分と台頭してきた。表現したはいいが、それが誰に伝わるかわからない、という状態である。これは、日記を書くのとも手紙を書いて渡すのとも違うノウハウが必要になってくる。

その状況が突き詰められて、今やコンプライアンスは合い言葉になった。どこでどんなクレームを受けるかわからない。その対処法を抽出し体系化し現代の表現が出来上がっている。いや、ほぼ総てが放送や出版といった"無差別に大量に出回る"方法論を気にかけているといっていい。そして、インターネットによって、一般人もまたその領域と地続きになった事を自覚する必要がある。

その中で、ヒカルの書いた歌詞が今後どれだけ伝わるかは注目される。数少ないが、例えばKeep Tryin'のような応援歌は相手に伝わってなんぼである。世代が変わり市場が変わり人が入れ代わった状態で、果たしてどれだけの言葉が届くのか。

そもそもヒカルは誰に何を伝えたいか。それにもよるが、ヒカルの場合は言語の選択から入れる。もしかしたらイタリア語に堪能になっているかもわからないし、フランス語の勉強もしているかもしれない。中国語だって要る。どうなることやら。

例えばイタリアの家族に感謝の気持ちを伝える歌が出来るとして。それを日本語で歌っても伝わらない。我々に聴かせてくれるのは有り難いけれど、伝えたい人がそちらならばイタリア語か英語で歌うべきだろう、という事になる。

作詞のノウハウはここらへんに尽きると言っていいかもしれない。そして、いちばんの問題は、「どこで誰が聴いているかわからない状態でどう作詞するか」という方法論なのだがそれについてはまた別の機会に。