無意識日記々

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日本語への爪痕の残し方

自分が週刊少年ジャンプを買わなくなったのは"ONE-PIECE"が始まったから(正確にはその前のプロトタイプの読み切り作品"ROMANCE DAWN"なんだがそれはまぁいい)とは前々からよく書いている気がするが、とするとあの雑誌を読まなくなってもう20年近い。なので同誌の"歴代"について語るのは難しいが、兎にも角にも自分が週刊少年ジャンプで読んだ作品の中で最も面白かったものの一つが冨樫義博の「レベルE」だ。いくつかの場面でけたたましく笑わせてうただき、幾つかの場面では目ん玉裏返るんじゃないかという位に吃驚させてもらった。名作だ。

その「レベルE」の中に「想像の斜め上を行く」という表現が出てくる。歴史の真実はどうか知らないが、少なくとも私はそこで初めてこの表現をみた。以来、自分でも時折使うし、他の誰かが使っているのを何度か見た。しかし最近は、その使用例の中に「これひょっとして出自を知らずに使ってるんじゃないか?」と思われるものも出てきた。いやはや、そりゃそうか、20年も前の漫画でただ一度きり使われた台詞を知っている道理は無いものな。

しかし、何だかこういうのは日本語の歴史に立ち会っているようでもある。この、新しい表現が出自を知らずに使われ始める段階にくればそれはもう新しい日本語が定着したとみてよいのではないか。少しむず痒くなってくる。

「想像の斜め上」だけではない。他にも様々なケースが存在する。人を応援する時に「頑張れ」と言うようになったのはNHKの五輪実況で「前畑頑張れ」と連呼したのが最初だとか、「ガッツポーズ」は元プロボクサーのガッツ石松のとったポーズから来ている、とか、或いは「さぶい」とか「引くわ」とかそういった言い回しを日本中に広めた最初は松本人志だとか、世代によっては意外な(しかし同時代の人にとっては常識の)出自をもつ日本語は幾つもある。

こうやって、「日本語に爪痕を残す」のはなかなかの事だ。そのうちその用例が辞書・辞典に載るかもしれない。考えるだけでワクワクする。

さて、じゃあ宇多田ヒカルってそういう"爪痕"を残した事があるかなぁと思ったのだが案外思いつかなかった。これは悔しい。作詞家という、日本語を扱って創造する有名人として、何かひとつくらい名を残す、いや、名は残らなくても言葉を残すような歌詞はどこかにないだろうか。

うーん、難しい。ツイッターでいちばん有名なのは『別に会う必要なんてない』だろうがこれはただのツンデレで、そこまで独創的な表現ではない。というか、ヒカルはもともとできるだけ日常的な言葉を使って、「あのお馴染みの言葉がPopsの歌詞になるの!?」みたいな驚きを与えるのが常だ。『どんぶらこっこ』みたいな。つまり、音楽と共に奏でた時に驚きに変わるものであり、言葉だけがそこに置いてあってもさしてインパクトは無い訳である。

そう考えると、ヒカルが爪痕を残すのは寧ろ、「こんなありきたりのことばにメロディーがついている」といった方面になるかもしれない。そうなると、最も優れているのは“ぼくはくま”になるだろうか。『けんかはやだよ』『ふゆはねむいよ』『あさはおはよう』『よるはおやすみ』―もう、本当に普通の、いやもう当たり前過ぎて日常生活においてすらわざわざ言わないフレーズに、メロディーがついている。これらの“あたりまえのこと”を歌う事によって、確かに何かが変わるのだ。ヒカルの爪痕の残し方は、そういうやり方でいい。“ぼくはくま”はその最たる例なのである。