無意識日記々

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俺って妙な遠慮するよね時々

もしHikaruが、Utadaのインタビューでいつも言っていたように、小さい頃は「ミュージシャンになんかなりたくない」と思っていたんだとしたら、職業音楽家として毎日を過ごしていて、もしその生活が楽しいと感じられているのなら、楽しければ楽しいほど同時に悲しくなるだろうなぁ、と想像する。後悔とかそういう事ではなくて。今生きてる人生を後悔している人がGoodbye Happinessを書ける筈が無い。そんな発想が出てこないよ。生まれ変わってもまたここでKissして欲しいだなんてな。そういう事ではなくて、何て言うんだろう、小さい頃の自分の思いが間違いだった事をひとつひとつ証明していってしまっているような、遣る瀬無い、切ない思いに囚われてしまいそうで。今を肯定すればするほど、充実した人生を歩めば歩むほど、幼き日々のあの強い決意は何だったのかと、なるのではないかと。「未熟だったんだな。」と納得してしまえる人はそれでいい。しかし、世界に対して憤りと無力感をもって接し居続けた小さな女の子の思いを裏切る事で今自
分は賞賛を浴び、社会的な地位と名声と財産を手に入れ、表現意欲を満たし、幸せな結婚と出産を経て『今私は一人じゃないし それなりに幸せで』と歌えているのだとしたら、やっぱり何か、こう、悔しさを受け止めたくなるよね、何とかして。

と、言えてたのも2013年8月までだったのかもしれない。はっきり書いている。『あまりに悲しく、後悔の念が募るばかり』と。一方でこうも書いている。『きっと母も(結婚を)応援してくれてると信じて』と。後悔。ああすればよかった、こうしたらどうだったか。どれだけ全力で生きていても、後悔の種は残る。ラオウのようにはなかなかいくまい。

もしかしたら一生トラウマかもしれない。果たして自分を許せるか。もしあの時自分が違う選択肢を選んでいたら、運命は…と考え始めたらキリが無い。ただ、現状の肯定は、先程の幼い女の子の心をみるあの感覚と、切り離していられるだろうか。

母親の居ない人生で幸せになってゆくと、罪の意識が募るかもしれない。それは、恐ろしい。ヒカルに限った事ではなく、介護や世話、看病や闘病で疲弊した人の多くが味わう感情だ。自分は残酷なのだろうか、こんな嫌な事を考える人間なのだろうかと。

真夏の通り雨』の時点は、恐らく罪の意識から最も、かどうかはわからないがかなり遠い場所なようにみえる。『思い出たちがふいに私を乱暴に掴んで離さない』のだから『囚われたままだね』、過去に。この後に来る罪の意識に関して、ヒカルは歌っただろうか。或いは、これから歌うだろうか。わからない。出来れば、馬鹿騒ぎの歌でも差し挟んで欲しい所だが。

いずれにしろ苦悩はどこまでも無くならない。痛みや悲しみで紛らせる事はあっても。喜びや快感に避難する事があっても、尚、悩み苦しむ。アルバムの全貌が完結するまで、暫し見守ろう。この感情のジェットコースターのような5年間を、歌で総括し、未来に向けて進めるような、そんな巨大な作品を期待する。

まぁ、いい歌があれば何でもいいんだけど。それ以上は、どうしようもないんだし。