通常の構成の楽曲であればAメロと呼ばれそこでなら本来都合二〜三回は繰り返されていたであろうパートが『PINK BLOOD』では曲中にたった一回だけ登場する。
『他人の表情も場の空気も上等な小説も
もう充分読んだわ』
この段落のメッセージ性は非常に強烈だが、それ故に楽曲中では一回しか使えなかったのかもしれない。同じメロディで別のこれより強烈な事を言おうとしたら違う曲みたいになっちゃうんじゃないかな。
で、皆さんも思ったろうが、
「表情を読む」
「空気を読む」
「小説を読む」
…この三つを並列して「読む」という動詞を
「個人の感情を察する」
「集団の心理を捉える」
「字を読む」
の三つの異なる意味で使いつつ一文に纏めてしまうという斬新なアイデアが光ってるよね。
ただ、これ、落ち着いて考えてみると、いちばん単純な意味の筈の「本を読む」のところが、結構含意が豊かになっているような気がしてな。
小説には何が書いてあるか。架空の人物の人生の一部或いは全部だ。人物は複数居てもいいし沢山の時代に跨っていても構わない。何らかの物語がそこにある。だが究極的にはそれは作者の思想や嗜好の反映である。世に出された小説は、詰まるところ執筆者が価値や魅力を感じた物語や叙述で構成されているのだ。でないと書いて出そうとしないよね。即ち「小説を読む」というのは「他人(執筆者)の価値観を知る」ということでもあるはずなのだ。あぁこの人はこんな話を面白いと思ってるんだな、こんな思想に価値を感じて我々に伝えようと思っているんだな、という風に。
で、だ。『PINK BLOOD』の歌詞に出てくるのはただの小説ではなく『上等な小説』である。英訳詞だと
『well-written novels』
即ち「うまく書かれた小説」となっている。もっと含意に近付けて訳すなら「よく出来た話」という感じかな。そう、少しの揶揄が入っているとみる。
つまりこの『上等な小説』というのは、他人からみて、小説という体裁やフォーマットに則ってよく整えられている、“商品として”上等な出来栄えの作品の事を指している。
もし仮に、ある小説に執筆者が自身の思想や嗜好をこれでもかと詰め込んだ場合、well-writenなんて言い方はされない。もっとしっちゃかめっちゃかで、小説としての体を成して居らず、荒々しくしかし情熱的な何かが出来上がる。もっと混沌としたものとなるだろう。
それと対比された『上等な小説』というのは、「世間的にこれが優れていると認められた技法の集積によって書かれた小説」を指す。規範や常識として確立された価値観に沿ったものだから、「よく出来た話」という、人から責められない、隙のない、完璧主義な小説として出来上がる。だが、それは本当に執筆者が書きたかったものなのか?伝えたかったものなのか?という点については、心許ない。
ヒカルは、そういう「世間で既に価値が認められている技法の集積」をもう知り尽くしたと歌っているのだ。それは、他人の表情を読んだり場の空気を読んだりするより更に広範な他者に対する理解の在り方だろう。「上等な小説はもう充分読んだ」とは、そういう、世界中の/歴史上の人々に対する理解もしっかりと深めてきたという自負でもあるのだ。確立された価値観についてはもう充分学んだよ、と。
そこらへんを踏まえていくと、『PINK BLOOD』の歌詞が言わんとしていることがより明らかになっていく訳だがそこら辺の話からまた次回。